歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

一条氏と土佐の小京都

高知県四万十市の四万十市郷土博物館

応仁の乱で京が荒れ果てると、関白まで務めた公家の一条教房は自身の荘園のある土佐幡多荘に下向して土着しました。一条氏が整備した土佐中村の城下町は、土佐の小京都と呼ばれました。土佐中村には港や宿駅などが置かれ、日宋貿易や日明貿易を行う船舶の重要な寄港地として物資の集散や人的交流の拠点となりました。

幡多郡と一条氏

康治2年(1143年)頃に摂政藤原忠通が土佐国主となり幡多郡を領有しました。平治元年(1160年)に平治の乱で平家が力を着けると、応保元年(1161年)に平清盛は幡多郡を取り上げて平重盛に与えますが、平家滅亡とともに鎌倉幕府の支配下となりました。承久元年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺されると、九条道家の子・九条頼経が4代将軍に迎えられることとなり、幡多郡は九条道家に与えられました。建長2年(1250年)の九条家家領分与により、幡多荘は三男・九条実経に与えられて一条家の祖となりました。

高知県四万十市の為末城跡

為末城跡

豪族の為松氏の居城で、東城、為松城、御城(詰)、今城の4つの城郭が連立しています。為末氏は一条氏の配下となり、土佐一条氏の四家老のひとりとなりました。

一条教房の下向

応仁2年(1468年)の応仁の乱で京が荒れ果てると、公家で関白まで務めた一条教房は自身の荘園のある土佐幡多荘に下向して土着しました。一条教房は豪族の加久見宗孝の娘を後妻として姻戚関係を結び、土佐支配の基盤を形成していきました。文明11年(1479年)には京都一条邸の再建のため大量の材木を輸送するなど、直接京都へ物資を輸送する拠点となりました。

高知県四万十市の一条教房墓

一条教房墓

一条兼良の長子で幡多に下向して土佐一條家の基をつくりました。奥御前宮に置かれた墓は、弘化3年(1846年)の山崩れで埋没しましたが、明治33年(1900年)に再興されました。

高知県四万十市の坂本遺跡窯跡

坂本遺跡窯跡

一条教房は最初に香山寺の麓にある坂本遺跡を拠点としました。15世紀の瓦窯跡3基が見つかり、香山寺と関係の深い中世の有力な寺院跡の可能性が高いとされています。

土佐一条氏の成立

一条教房の次男・一条房家は、土佐中村で土佐一条氏を成立させ、土佐の小京都と呼ばれる町を築きました。高貴な公家である一条氏の存在は、幡多荘で競合していた国人や土豪の抗争を裁定する働きがありました。永正14年(1517年)には高岡郡に出兵し、一条領とするなど在地支配の深化を図りました。

土佐の小京都

14世紀頃から土佐中村は水上交通の要衝として次第に発展し、一条家の荘園管理の奉行所が置かれました。一条氏は中村御所を造営し、摂家に仕える公家や親類縁者を配置して京風の町づくりを始めました。中村には港や宿駅などが置かれ、日宋貿易や日明貿易を行う船舶の重要な寄港地として物資の集散や人的交流の拠点となりました。現在も一条神社で開催される女郎ぐも相撲大会は、一條教房とともに下向した女性たちが華やかな京の暮らしを懐かしんで遊んだものと言われます。

高知県四万十市の中村御所跡

中村御所跡

文明2年(1470年)に一条教房が構えた御所跡で、一条氏による土佐支配の拠点でした。文久2年(1862年)には一条家御廟所跡に一条神社が建立されました。

高知県四万十市の不破八幡宮

不破八幡宮

一条教房が中村を開府したとき、幡多郡の総鎮守かつ一条家守護神として山城国石清水八幡宮を勧請して創建しました。一条氏が指導した神事は、庶民の生活指導の役目がありました。

土佐一条氏の繁栄

2代一条房冬は、摂関一條家の本家筋である一条冬良の猶子として高い官位を得て、伏見宮邦高親王の王女玉姫を妻に迎えて皇族の姻戚となりました。摂関家とは言え、在国公家に高貴な宮家の王女が嫁ぐことは前代未聞のことでした。一条房冬は本山家に攻め滅ぼされた長宗我部国親を保護して所領回復に協力しました。

高知県四万十市の玉姫の墓

玉姫の墓

玉姫は伏見宮邦高親王の王女で、2代一条房冬に嫁いで一条房基を生みました。天文16年(1547年)に病死して常照寺に葬られましたが、常照寺は廃仏毀釈で廃寺となりました。

土佐一条氏の衰退

3代一条房基は豊後大友氏や日向伊東氏と連携を強化し、伊予に進出するなど戦国大名として変化していきました。天文18年(1549年)に一条房基は自ら命を絶ち、わずか7歳の一条兼定が跡を継ぎました。永禄3年(1560年)に一条兼定は宇都宮氏の娘を娶りましたが、永禄7年(1564年)に婚姻を解消して大友宗麟の娘を迎えました。この婚姻関係の解消を契機として、宇和郡領主・西園寺公広の土佐侵攻を皮切りに土予合戦が展開されました。

一条兼定の追放

一条兼定は豊後の大友宗麟に援軍を求めて、永禄10年(1567年)に伊予宇和郡の多田を討ち、翌年には道後領主河野通直と伊予長浜で決戦を交え、元亀3年(1572年)には黒瀬城を攻めて西園寺公広を攻略しました。幡多郡を狙う長宗我部元親は知勇に優れる土居宗珊を亡き者とするため、贈物を届けて長宗我部氏と親密な関係を演出し、一条家に謀反を企てている噂を流しました。一条兼定は激怒して土居宗珊とその一門を殺害して乱行を繰り返したため、天正2年(1574年)に羽生監物、為松若狭守、安並和泉守の三家老の合議により強制的に隠居させられて豊後国へ追放されました。

渡川合戦と滅亡

一条兼定の追放で摂家・一条内基が一条内政を元服させて土佐一条家の当主に据えますが、家中は混乱して一条氏老臣が攻め殺される事件が起こりました。長宗我部元親はこの混乱を好機と捉え、叛乱鎮定の名のもとに中村城を占拠しました。豊後国に追放された一条兼定は受洗してドン・パウロと名乗り、天正3年(1575年)に豊後大友氏の支援を受けて土佐中村に侵攻して幡多郡奪還を目指しましたが、キリスト教宣布を望んでいたため寺社が反発し、一条内政も長宗我部氏を支援したことで渡川(四万十川)の戦いに敗れて敗走しました。

土佐一条氏の滅亡

渡川合戦に敗れた一条兼定は、伊予・法華津に滞在して幡多郡奪還を目指しましたが、天正5年(1577年)に元家臣の入江左近に襲われて重傷を負い、天正13年(1585年)に宇和島市沖の戸島で病没しました。渡川合戦で勝利した一条内政は長宗我部元親に謀反を疑われ、天正9年(1581年)に伊予国に追放されて一条氏の中村支配は終わりを迎えました。