四万十市

高知県四万十市は高知県西南部に位置し、豊富な山林資源と日本最後の清流として知られる四万十川、南東部は太平洋に面している自然環境に恵まれた地域です。応仁の乱による京都の荒廃により前関白一条教房が下向して中村の町がつくられ、京都を模して造られた町並みは土佐の小京都と呼ばれました。
概要
- 面積
- 632.29km2
- 人口
- 31,837人(2022年10月1日)
- 市の木
- 柳
- 市の花
- 藤
- 市の鳥
- カワセミ
- 市の魚
- アユ
- 地図
特集
歴史
応仁の乱で京が荒廃したことから、名門公家の一条家が土佐幡多荘に下向して土着しました。一条氏は中村に居館を構えて土佐の小京都と呼ばれる町並みを整備しました。中村は日宋貿易や日明貿易の寄港地として栄えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
双海や平野などの海岸段丘、河岸段丘で、後期旧石器時代の双海中駄場遺跡や平野遺跡などが確認されています。縄文時代前期には双海や平野、国見、大用等の海岸や河岸段丘に遺跡が見られ、大分県姫島産の黒曜石製石器が出土しています。縄文時代後期になると海退が進んで平地の湿地近くに小規模な集落が形成し、有岡、入田遺跡、中村貝塚などが形成しました。農耕稲作が伝わり、弥生時代後期には佐田、佐岡、安並などに小規模な集落が増えていきました。

四万十川流域の文化的景観
日本最後の清流として知られています。上流の山間部では棚田や茶畑が広がり、中流域は水運の中継地として栄えました。下流域は漁撈や林産物の積出港として栄えました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀から5世紀にかけて高岡山古墳群のほか、高知県下唯一の前方後円墳である曽我山古墳が築造されました。6世紀には古津賀古墳、竹島古墳が築造され、具同中山遺跡や古津賀遺跡では祭祀跡や祭具が出土しています。
奈良時代、平安時代
土佐に波多国と都佐国がありましたが、7世紀半ばに波多国は土佐国に併合されたと考えられています。市域は幡多郡に属して、中筋川流域に郡衙が置かれていたと考えられています。神亀元年(724年)の流刑の制で、土佐は伊豆、佐渡、隠岐などとともに遠流国なり、皇族や貴族らの流刑地となりました。康治2年(1143年)頃に摂政藤原忠通が土佐国の知行国主となり、金剛福寺に寄進するなど関係を強めています。
鎌倉時代、南北朝時代
元久3年(1206年)に藤原忠通の子・九条兼実は土佐国を知行国とし、この頃に幡多荘が成立したと考えられています。建長2年(1250年)に九条道家が家領を子息に分与し、幡多荘は四男実経に与えられて一条家の祖となりました。
室町時代、安土桃山時代
応仁元年(1467年)に足利将軍の後継者争いから応仁の乱が起こると、京は荒れ果ててて公家の一条邸も消失する事態となりました。一条教房は関白まで務めた有力な公家でしたが、応仁2年(1468年)に自身の荘園がある土佐幡多荘に下向して土着しました。一条教房の次男・一条房家が土佐一条氏の初代となり、土佐中村に土佐の小京都と呼ばれる町を築きました。
長宗我部氏の支配
4代一条兼定は、重臣の土居宗珊とその一門を殺害したことで強制的に隠居のうえ国外追放されました。この混乱に乗じて長宗我部元親が幡多郡に介入し、幡多郡奪還を目指す一条兼定を渡川合戦で破り一条一族を追放して支配を確実のものとしました。

一条教房墓
一条兼良の長子で幡多に下向して土佐一条家の基をつくりました。奥御前宮に置かれた墓は、弘化3年(1846年)の山崩れで埋没しましたが、明治33年(1900年)に再興されました。

坂本遺跡窯跡
一条教房は香山寺の麓にある坂本遺跡を拠点としました。15世紀の瓦窯跡3基が見つかり、香山寺と関係の深い中世の有力な寺院跡の可能性が高いとされています。
江戸時代
慶長5年(1600年)に長宗我部氏が没落して遠江国から山内一豊が入国し、山内一豊の弟・山内康豊が中村城に入りました。慶長18年(1613年)に2代山内政豊が中村城を改修しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で中村城は廃城となりました。山内政豊は嫡子なく死去したため中村山内家は一時断絶しました。
中村支藩の成立と廃藩
2代藩主・山内忠義は隠居に際して、次男の山内忠直に中村三万石の分地を決め、寛文4年(1664年)に分地が幕府に認められて中村支藩が成立しました。山内忠直の跡を継いだ山内豊定は生後1か月の嫡子豊次を残して死去し、元禄2年(1689年)に豊次も死去したことで中村支藩は消滅しました。中村の町は解体されて多くの人口が失われ、度重なる洪水や飢饉が重なり寂れ、町人が主導して町を復興していきました。

四ケ村溝
土佐藩家老の野中兼山による灌漑事業の遺構です。長さ160メートル、幅11メートルの井堰を設けて四万十川の支流・後川から分水し、水路を通して田畑に水を引き込みました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で高知県が生まれ、明治11年(1878年)に幡多郡役所が置かれました。勤王の色彩が強い中村では民権派よりも帝政派が強く、民権派の杉内清太郎が殺害される右山事件が起こりました。中村の豪商俵屋に生まれた幸徳秋水は、労働運動や社会主義運動の理論的指導者として活躍しますが、明治44年(1911年)に大逆を企てた罪で処刑されました。
戦後から現在
昭和20年(1945年)の空襲や翌年の南海大地震で大きな被害を受けました。昭和45年(1970年)に鉄道が中村まで延伸しましたが、国鉄の分割民営化に伴い中村線は廃線となり、昭和63年(1988年)に第三セクター土佐くろしお鉄道に移管され、宿毛まで延伸しました。平成17年(2005年)に中村市と西土佐村が合併して四万十市が誕生しました。

