歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

古代日本の西の都・大宰府

福岡県太宰府市の太宰府天満宮

白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した倭国は、唐と新羅の侵攻を恐れて古代山城を築造して、博多の交易拠点を太宰府市域に移しました。大宰府は大陸との交易拠点となり、京から長官が赴任することで独自の文化が花開きました。やがて京から遠いため左遷の地となり、菅原道真らが赴任させられてました。

水城・大野城の築造

斉明天皇6年(660年)に倭と親交の深い朝鮮半島の百済が唐と新羅に滅ぼされ倭に助けを求めました。斉明天皇は百済救援の派兵を決定し、遺志を引き継いだ中大兄皇子(のちの天智天皇)が指揮をとりましたが、倭・百済連合軍は白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗しました。倭は唐・新羅連合軍から攻められることを恐れて、水城・大野城・基肄城を築いて防衛体制を整え、博多湾沿岸の拠点を内陸の太宰府市域に移しました。

福岡県太宰府市の水城跡

水城跡

築造技術には百済最後の王都である扶余の羅城と同じ技術が採用された古代山城で、水を貯えた濠と土塁とからなるため水城と名付けられました。

福岡県糟屋郡の大野城跡

大野城跡

天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで敗れた大和王権は、大宰府を守るために百済から亡命した憶礼福留と四比福夫に命じて大野城を築城しました。

遠の朝廷「大宰府」の成立

大宝元年(701年)に大宝律令の制定で律令国家の体制が整うと、九州の政治・外交・軍事を担う役所として大宰府が設置されました。大宰府は朝廷最大規模の出先機関として遠の朝廷と呼ばれ、政庁の南側には碁盤の目のように区画整理された都市が広がりました。

福岡県太宰府市の大宰府政庁跡

大宰府政庁跡

大宰府の中核で重要な政務や儀式が行われました。礎石のうえに大きな柱を建て、屋根に瓦が用いられる大陸風の立派な建物があり、菅原道真の漢詩にちなんで都府楼とも呼ばれます。

福岡県太宰府市の大宰府学校院跡

大宰府学校院跡

政庁を中心に役人が実務を行う役所、税を納める倉庫、役人養成学校などが置かれ、外国の使節をもてなすための客館も置かれました。

大宰府の文化

外国との交流・交易により、大宰府には海外の文物や文化がもたらされました。都からは有力貴族が高官として赴任して雅な宮廷文化がもたらされました。大宰府の長官として赴任した大伴旅人は梅花の宴を催し、唐から持ち込まれた珍しい梅をめでながら歌を詠み、日本最古の歌集である万葉集に掲載されました。

大宰府の仏教文化

奈良時代には伝染病や飢饉などの災いを取り除くために仏教の力で国を守ろうとしました。全国に国分寺と国分尼寺が造られ、政庁の北西に筑前国の国分寺と国分尼寺が建てられました。天平18年(746年)に創建した観世音寺は、唐の僧・鑑真が戒壇を設置して僧侶を目指す多くの人が訪れるようになりました。

福岡県太宰府市の観世音寺

観世音寺

天平18年(746年)に天智天皇が母の斉明天皇の供養のために創建した寺院で、九州の仏教の中心を担うようになり府の大寺と呼ばれました。

福岡県太宰府市の戒壇院

戒壇院

日本の依頼に応えて唐から来日した僧・鑑真は、正式な僧侶になるための儀式を行う戒壇を観世音寺に設置しました。

福岡県太宰府市の筑前国分寺

筑前国分寺

国分寺には高さ50メートルを超える七重塔が造られ、大宰府を訪れる人々を出迎えていました。

福岡県太宰府市の国分瓦窯跡

国分瓦窯跡

筑前国分寺跡の北東にある8世紀中葉ころの瓦窯跡で、筑前国分寺の創建瓦を焼いたと考えられています。

菅原道真と太宰府天満宮

現在おおくの人が参拝に訪れる太宰府天満宮は、菅原道真を神としてまつる神社です。菅原道真は平安時代の9世紀後半にましたが、 大宰府は九州全体を統括して外交の窓口ではありましたが、都から遠いため失脚した有力者を左遷する地として使われることがありました。藤原広嗣、玄昉、阿保親王、源高明、藤原伊周などのほか、菅原道真も大宰府に左遷されました。

菅原道真の左遷

9世紀後半に学者・詩人・政治家として活躍した菅原道真は、政争に敗れて昌泰4年(901年)に大宰府に左遷されました。大宰府に与えられた住居は床がボロボロで屋根は雨漏りするような有様で、失意のうちに過ごした2年後の延喜3年(903年)に亡くなりました。

太宰府天満宮の創建

道真の死後、都で落雷や突然死が起こるようになり、人びとは菅原道真の祟りだと恐れました。菅原道真を天満大自在天神(天神さま)として祀るため、墓のうえに安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)がつくられました。太宰府天満宮は貴族たちから建物や土地が寄進され、最盛期には40か所以上の荘園を持つ大寺院となりました。江戸時代には庶民が全国の名所を旅行するようになり、太宰府天満宮は「さいふまいり」の名所として多くの人が参拝に訪れました。

福岡県大宰府市の太宰府天満宮の御神牛

御神牛

亡骸は埋葬のため牛車で引かれましたが、途中で牛が動かなくなり、菅原道真の遺志だと考えてそこに墓が建てられたとされます。

福岡県太宰府市の太宰府天満宮

太宰府天満宮

菅原道真は文筆に優れる学問や文化芸術の神として、また雨を降らせる雷神として農耕の神として尊敬され、現在まで篤く信仰されています。​

大宰府の衰退

平安時代になると、皇族や上級貴族は太宰府長官に任命されても現地に来ないようになり、次第に実務を取り仕切る現地の中下級の役人が権力を持つようになりました。天慶4年(941年)に藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、大宰府を攻撃して財物を強奪しました。反乱は鎮圧されましたが、政庁や役所の建物が焼失して大きな被害を受けました。