歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

福岡市

福岡県福岡市の中洲

福岡市は、北は玄界灘に臨み、海の中道と糸島半島が抱く博多湾に面しており、背後は脊振や油山などの山々に囲まれた半月型の福岡平野に位置しています。九州地方最大の人口を有する政令指定都市で全国の市でも5番目の人口を擁します。古来より博多を呼ばれ、大陸方面への玄関口として利用されてきました。

概要

面積
343.39km2
人口
1,620,229人(2022年2月1日)
市の木
クロガネモチ
広場の木
クスノキ
市の花
フヨウ(夏)、サザンカ(冬)
野山の鳥
ホオジロ
海の鳥
ユリカモメ
地図

歴史

福岡市は古くから海外交易の窓口として機能していました。古代から朝鮮半島の文化が伝わり、弥生時代には後漢光武帝から贈られた金印が見つかりました。遣唐使などの海外交易の拠点となり、元寇では元軍から攻められました。日宋貿易や日明貿易で豪商が生まれ、戦国大名の争奪地として戦禍に巻き込まれました。江戸時代から黒田氏が支配して明治時代を迎えました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

朝鮮半島から九州に分布する剥片尖頭器が発見されたことから、寒冷な旧石器時代には福岡市は陸地が広がりました。縄文時代は温暖化による縄文海進で現在に近い海岸線となりドングリなどが採取されていました。朝鮮半島から稲作文化が伝わると環濠集落が出現して弥生時代中期からは大規模な集落が造られるようになりました。弥生時代後期には環溝集落も出現して、西暦57年には後漢の光武帝が倭奴国王に与えた金印が志賀島から発見されています。

福岡県福岡市の板付遺跡

板付遺跡

縄文時代晩期から弥生時代後期の複合遺跡です。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12メートルの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡です。

福岡県福岡市の今山遺跡

今山遺跡

標高80メートルの今山にある弥生時代の石斧製作所の跡で、製造された石斧は弥生時代初期から中期にかけて伊都国の交易品として北部九州一帯に広く流通しました。

福岡県福岡市の吉武高木遺跡

吉武高木遺跡

早良平野の中央部を貫流する室見川の中流左岸に広がる弥生時代前期末から中期初めの王墓と言われ、多数の青銅製の武器や鏡、ヒスイ製の勾玉などが出土しています。

福岡県福岡市の金隈遺跡

金隈遺跡

月隈丘陵の中央部にある大規模な共同墓地で、弥生時代前期の中頃から後期の前半にかけて248基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が造営されました。

福岡県福岡市の比恵遺跡

比恵遺跡

那珂川と御笠川に挟まれた丘陵にある縄文時代終わりから造営された集落と墳墓地です。発掘された銅剣に付着した絹は日本最古の絹織物とされています。

福岡県福岡市の野方遺跡

野方遺跡

弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡で、銅剣や銅矛の青銅製品やガラス製品のほか、中国製の鏡(獣帯鏡・内行花文鏡)が副葬が発見されました。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀末には、今宿平野の東端に朝鮮半島に起源を持つ横穴式石室が日本列島で最も早く作られました。今宿古墳群の首長墓に位置づけられる前方後円墳は、後円部の上部中央に死者を埋葬する横穴式石室が築かれ、石室内には石棺、埴棺、木棺がおさめられ、鏡、玉類、武器、農工具などが大量に副葬されていました。

福岡市の今宿古墳群(丸隈山古墳)

今宿古墳群(丸隈山古墳)

5世紀前半の前方後円墳で、墳長85メートルで福岡市で最大規模です。後円部上部にある玄室は初期の横穴式石室で石棺は二つに仕切られて二体が埋葬されていました。

福岡市の今宿古墳群(大塚古墳)

今宿古墳群(大塚古墳)

6世紀前半の前方後円墳で墳長は64メートルあり、円筒形や馬型、武装した人物を模した埴輪などとともに須恵器や朝鮮半島産の陶質土器が出士しています。

福岡市の今宿古墳群(鋤崎古墳)

今宿古墳群(鋤崎古墳)

4世紀末から5世紀初頭の前方後円墳で墳長は62メートルあり首長墓と位置づけられます。今宿平野で最古の埴輪が発見され、石室は日本列島で最も早く造られました。

福岡市の今宿古墳群(飯氏二塚古墳)

今宿古墳群(飯氏二塚古墳)

6世紀前半にかけて標高30メートルほどの丘陵上に築かれた前方後円墳で、装身具や馬具や須恵器が出土しています。

福岡市の今宿古墳群(兜塚古墳)

今宿古墳群(兜塚古墳)

5世紀の前方後円墳で墳長は53メートル以上ありガラス製の玉などの装身具、刀などの武具や馬具が出土しました。

福岡市の今宿古墳群(山ノ鼻一号墳)

今宿古墳群(山ノ鼻一号墳)

4世紀中頃の前方後円墳で墳長37メートルあります。中国後漢時代の銅鏡の破片や4世紀頃とみられる土師器が出土しました。

福岡市の今宿古墳群(若八幡宮古墳)

今宿古墳群(若八幡宮古墳)

4世紀後半の前方後円墳で墳長は47メートルあります。埋蔵部は杉材をくりぬいた舟形木棺で、木棺内部に三角縁神獣鏡、玉類、鉄製の環頭太刀などがありました。

福岡市の今宿古墳群(老司古墳)

老司古墳

5世紀初頭頃の首長墓で後円部に3基、前方部に1基の埋葬施設が作られ、竪穴系横口式石室からは複数の成人男女の人骨のほか三角縁神獣鏡などが出土しました。

奈良時代、平安時代

那の津と呼ばれた博多港は遣唐使の時代に国際港として機能しました。平安京、難波、筑紫には外国使節の迎賓館として鴻臚館が置かれ、筑紫の鴻臚館は筑紫館と呼ばれました。斉明天皇6年(660年)に朝鮮半島の百済を唐と新羅の連合軍が攻撃しました。斉明天皇は百済を支援するために筑紫に向かいましたが、翌年に筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御しました。斉明天皇の皇子・天智天皇は斉明天皇を供養するために観世音寺の建立を発願しました。

福岡県福岡市の鴻臚館跡

鴻臚館跡

持統2年(688年)に新羅国使全霜林をもてなした記録が残され、9世紀後半以降からは中国商人との貿易の舞台として日本最大の国際交流の拠点となりました。

福岡県福岡市の老司瓦窯跡

老司瓦窯跡

観音寺は古代の役所大宰府と密接な関係がある古寺で、その瓦を焼いた窯跡が福岡市南区老司に見つかりました。

福岡県福岡市の博多遺跡

博多遺跡

11世紀後半から対外交流の窓口として機能した遺跡で、都市発展の起点となる貿易品の荷揚げなど港湾施設の石積遺構を中心としています。

鎌倉時代、南北朝時代

12世紀に平氏が進出した博多は対宋貿易の拠点として繁栄し、12世紀から13世紀にはお茶、饅頭やうどんが伝来しました。文永11年(1274年)にユーラシア大陸の大半を手中におさめた元が博多湾に襲来し、百道浜付近に上陸した元軍と少弐景資らが激しく戦いました。博多の町は被害を受けて商船の往来が一時途絶えました。

福岡県福岡市の元寇防塁

元寇防塁

元の来襲に備えて建治2年(1276年)に今津から香椎までの海岸線に築かれました。弘安4年(1281年)の再来襲では防塁に阻まれて侵攻できませんでした。

福岡県福岡市の聖福寺

聖福寺境内

元久元年(1204年)に栄西が初の本格禅宗寺院として建立しました。後鳥羽上皇から扶桑最初禅窟と方丈の宸翰を賜り、室町時代に京都五山十刹制の第3位を賜ります。

室町時代、安土桃山時代

博多商人肥富の勧めにより将軍足利義満が日明貿易を始め、博多は明や朝鮮などの交易で大いに栄えました。16世紀には博多三傑と呼ばれる嶋井宗室、神屋宗湛、大賀宗九の豪商が生まれ、博多は戦国武将たちの争奪の的として幾度となく戦乱に巻き込まれました。元徳2年(1330年)に大友貞載が立花城を築城して博多支配の拠点としますが、周防山口を本拠とする大内氏が博多に進出して大友氏と分割して統治しました。やがて毛利氏が台頭して大内氏を退けると、博多進出を図る毛利氏と大友氏が争うようになりました。

九州を派遣を巡る争い

天正6年(1578年)に大友氏が日向耳川の戦で島津氏に敗れて急速に勢力を失うと、龍造寺隆信が筑前に攻め込み天正8年(1580年)には博多も襲撃され焦土と化しました。龍造寺氏が天正12年(1584年)に肥前沖田畷の戦で島津・有馬連合軍に敗れると島津氏が九州をほぼ手中にしますが、天正14年(1586年)から豊臣秀吉が九州征伐を行い島津氏を降伏させました。

福岡県福岡市の博多町屋

博多町屋

戦乱で荒廃した博多の町は太閤町割りにより復興を遂げ、天正15年(1587年)には千代松原で博多商人も招いて千利休の茶会が催されました。

福岡県福岡市の筥崎宮

筥崎宮

平安時代中期に創建されて宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。筑前国を治めた小早川隆景が文禄3年(1594年)に楼門を造営しています。

江戸時代

豊臣秀吉が亡くなり慶長5年(1600年)に関ケ原の戦いが起こると、東軍として参加した黒田長政が筑前国を与えられて福岡藩初代藩主となりました。2代藩主黒田忠之は家臣と反りが合わず寛永9年(1632年)に黒田騒動が起きています。寛永18年(1641年)に幕府が鎖国を決定すると、海外貿易は長崎出島に限定されました。3代藩主黒田光之は藩の財政を立て直すため、厳しい倹約令に加え、博多商人を利用して朝鮮との密貿易や銘菓鶏卵素麺を全国に広げました。6代藩主黒田継高は藩政改革や財政再建に取り組む一方で文化を保護し、宝暦4年(1747年)に別邸友泉亭を造営しています。

福岡県福岡市の福岡城跡

福岡城跡

黒田長政は慶長6年(1601年)から博多の町の近くに福岡城の築城を始め海外貿易や新田開発などを行いました。

福岡県福岡市の崇福寺

崇福寺

仁治元年(1240年)に湛慧禅師が太宰府に創建しましたが、島津氏と大友氏の岩屋城の合戦で焼失して慶長5年(1600年)に黒田長政が再建して黒田家の菩提寺となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で福岡城内に福岡県庁が置かれました。明治6年(1873年)の筑前竹槍一揆で県庁が焼き打ちされ、明治9年(1876年)に県庁が中洲に移されました。福岡市は明治22年(1889年)に誕生して明治32年(1899年)に博多港が対外貿易港として開港しました。太平洋戦争では昭和20年(1945年)に福岡大空襲で被害を受け、博多港が引揚支援港となりました。

福岡県福岡市の大濠公園

大濠公園

福岡城の外濠として利用した場所を昭和2年(1927年)の東亜勧業博覧会を契機に公園として整備されました。

福岡県福岡市の中洲

中洲

福岡城築城の際に那珂川と博多川に囲まれたデルタ地帯に土砂が積み上げられたことが始まりで、明治時代から開発されて日本三大繁華街となりました。