久留米市
久留米市は福岡県南西部に位置し、筑後川が貫流して九州最大の筑後平野を形成しています。筑後川をはじめとする自然の恵みと文化の交流は、久留米ラーメンなどのご当地グルメを多数生み出しました。江戸時代に久留米藩の城下町が整備されて明治時代には筑後地域の政治・経済の中心的な都市として成長しました。
概要
- 面積
- 229.96km2
- 人口
- 300,902人(2022年3月1日)
- 市の木
- ハゼ、久留米つばき、くろがねもち、けやき、くすのき
- 市の花
- 久留米つつじ、コスモス
- 市の歌
- 久留米市の歌、ふるさとのささやき〜新久留米市の歌〜
- 地図
歴史
交通の要衝である久留米市は、古くから大陸や半島から稲作などの文化が到来しました。豊穣な筑後平野には磐井などの豪族が勢力を誇り、律令体制が成立して筑後国府が置かれました。江戸時代に久留米藩が成立して城下町が整備されると、明治時代以降も引き継がれて筑後地域の政治・経済の中心的な都市となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
高良山北西麓から筑後川に至る低台地を中心に後期旧石器が発見されています。耳納山地西側に多くの縄文遺跡が分布しており、縄文時代後期には正福寺遺跡に集落がつくられました。大陸や半島との交流が進むと稲作文化や縄文系無文土器が伝えられました。
久留米市街
筑後川の貫流により沖積作用で九州最大の平野・筑後平野が形成しました。陸路と水路の交通の要衝として交易が盛んになりました。
安国寺甕棺墓群
筑後川南岸にある弥生時代中期から後期に埋葬された甕棺墓111基、祭祀土坑17基、土壙墓4基、土坑4基が確認されています。
古墳時代、飛鳥時代
高良山麓には久留米市で最古級の祇園山古墳が造営されて三角縁神獣鏡が出土しました。6世紀後半に盟主とされる筑紫君磐井は527年に磐井の乱を起こして大和王権と御井郡で交戦となり、翌年に敗れています。朝鮮半島で唐と新羅が百済を滅ぼすと、斉明天皇は百済救済のために出兵して663年に白村江の戦いで大敗北を喫しました。大和王権は国土防衛のため神籠石をはじめとする城を整備しました。
浦山古墳
成田山久留米分院敷地内にある5世紀後半に作られた全長60メートルの帆立貝式前方後円墳で、内部には家形石棺が納められています。
日輪寺古墳
5世紀後半から6世紀初頭に造られたと考えられる全長50メートルの前方後円墳です。玄室内に鍵手文と同心円文が交互に線刻されています。
御塚古墳
5世紀後半から6世紀前半代に建造され水沼君の墓所とされる古墳です。御塚は三重の周濠が巡る帆立貝式前方後円墳です。
権現塚古墳
5世紀後半から6世紀前半代に建造され水沼君の墓所とされる古墳です。権現塚は二重に周濠が巡る円墳です。
下馬場古墳
6世紀後半に築造されたと考えられている円墳で、内部には赤と青の顔料を使用してほぼ壁面全体に壁画が描かれています。
田主丸古墳群(田主丸大塚古墳)
6世紀後半に築造された墳丘全長103メートル、後円部の直径60メートルの前方後円墳で、建造当時は九州最大の規模でした。
田主丸古墳群(寺徳古墳)
6世紀後半の築造と考えられている直径18メートルほどの円墳で、石室内部の壁面に赤2種と緑の顔料で壁画が描かれています。
田主丸古墳群(中原狐塚古墳)
6世紀後半の築造と考えられている直径19メートルの円墳です。石室内部に赤と緑、青で舟や人物などの多様な図文が描かれています。
田主丸古墳群(西館古墳)
6世紀後半の築造と考えられている耳納山麓の中腹にある古墳で、横穴式石室の奥壁と玄門の一部に赤や緑の顔料により装飾が施されています。
高良山神籠石
飛鳥時代の朝鮮式山城と考えられている遺跡で、高良山の山腹にある全長1.5キロにも及んで巨大な切石が竝列しています。
奈良時代、平安時代
律令国家の成立により地方は国単位の行政区分を整備しました。7世紀末に筑紫国から筑後国が分割されると筑後国府が設置されました。8世紀はじめに太宰府が成立すると筑後国府も移されて、太宰府に筑後国分寺や国分尼寺も造営されました。筑後国守の都朝臣御酉は悪化した財政を立て直そうとしましたが、元慶7年(883年)に殺害される事件が起きました。天慶2年(939年)の藤原純友の乱では太宰府とともに国府は焼失し、移転して再建されています。
筑後国府跡
飛鳥時代から平安時代にかけて、筑紫平野の陸路と水路の要衝に政庁を中心として国司館や役人の屋敷などが置かれて筑後国の政治、経済、文化の中心となりました。
高良大社
藤原純友の乱で焼失した神明帳に代わり作成された新神明帳が残されており、これが現存する最古の神明帳とされます。
鎌倉時代、南北朝時代
筑後国国司・押領使の草野氏が竹井城を拠点に城下町を整備しました。草野氏は元寇襲来でも参戦して活躍しました。南北朝期には征西将軍懐良親王が高良山に在陣して南朝方の拠点となり、草野氏も南朝方として各地で戦いました。九州探題の今川了俊が高良山を拠点とすると状況は一変しました。
室町時代、安土桃山時代
戦国時代になると大友氏の勢力下に置かれ、大友氏が衰退すると周防国の大内氏や肥前国の龍造寺氏、薩摩国の島津氏が侵攻し、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州を平定すると毛利秀包が久留米城に入城しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、豊前中津城の黒田如水(官兵衛)が久留米城を攻めて明け渡されました。
久留米城
筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城で、毛利秀包は柳川城の支城として扱いましたが、久留米藩を治めた有馬氏が修築して居城としました。
江戸時代
慶長 8 年(1603年)に江戸幕府が開かれると、筑後国には関ヶ原の戦いで石田三成を捕らえるなどの功を上げた田中吉政が入国しました。2代田中忠政は嫡子がおらず改易されて元和7年(1621年)に筑後国北部の領主として有馬豊氏が入り明治時代まで久留米藩主を務めました。有馬豊氏は廃城の久留米城を修築して居城として城下町を整備しましたが、やがて財政が悪化すると正徳の改革で年貢徴収の強化により享保一揆や宝暦一揆が起こりました。
久留米藩主有馬家墓所
有馬家の菩提寺江南山梅林寺には、初代豊氏、2代忠頼、7代頼循、10代頼永が埋葬され、霊廟や石塔、一族や家臣たちの石塔などが残されています。
高山彦九郎墓
寛政の三奇人と称される人物で、全国を遊歴して王政復古を唱えましたが、幕府の執政に絶望して寛政5年(1793年)に久留米の医師・森嘉膳宅で自決しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
尊攘派青年らは反政府挙兵計画を企てて藩知事有馬頼咸が謹慎、首謀者らが処分される明治4年久留米藩難事件が起きました。明治時代から大正時代にかけて三潴用水や安武用水が整備されて耕地整備が進み、ブリヂストン、アサヒシューズ、ムーンスターのゴム3社が創業して日本履物・ゴム産業発祥の地となりました。昭和20年(1945年)には空襲で市街が焼失しましたが、次第に復興して現在に至ります。
ゴム産業発祥の地
ブリヂストン、アサヒシューズ、ムーンスターのゴム3社が創業して日本のゴム産業の発展と技術革新に貢献しました。
久留米成田山
成田山新勝寺から分霊して昭和33年(1958年)に開山しました。日本最大級の高さを誇る救世慈母大観音が祀られています。