歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

柳川市

福岡県柳川市の川下り

柳川市は福岡県の南西部にあり有明海に面します。市域の大部分は古くから開拓された干拓地で、広大な平らな土地には田園風景が広がります。町中を堀割と呼ばれる人工的な水路が縦横に巡ることから水郷と呼ばれています。

概要

面積
77.15km2
人口
63,135人(2022年3月1日)
市の木
やなぎ
市の花
ハナショウブ、藤
地図

歴史

柳川市域は有明海の大きな干満で生まれた干潟は、時代とともに干拓されて広大な土地が生まれました。江戸時代には柳川城を中心とする柳川藩が立藩し、平坦な干拓地に掘割と呼ばれる人工的な水路を縦横に巡らせました。柳川は水郷のまちとなり、ドンコ船で水路を巡る川下りが観光資源となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代や縄文時代の遺跡は確認されず、徳益八枝遺跡など鷹尾地区で弥生時代の掘立柱建物や土器が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代の遺跡は多くありませんが、ヘータカサン遺跡や地蔵堂遺跡で集落が確認されています。神后皇后元年(367年)に山門県の豪族・土蜘蛛田油津媛を討伐するため、神后皇后が鷹尾の港に上陸したとの伝承が残ります。

奈良時代、平安時代

国人衆である田尻氏が高田町田尻を本拠としていました。藤原純友の乱の際に藤原純乗が柳川まで進出してきましたが、大宰権帥の橘公頼・橘敏通父子により撃退されました。

鎌倉時代、南北朝時代

源久直が地頭職となり蒲池久直と名乗りました。

室町時代、安土桃山時代

文亀年間(1501~04年)の蒲池治久又は天文年間(1532~55年)に蒲池鑑盛が柳川城を築きました。天正9年(1581年)に蒲池鎮並が龍造寺隆信に誅殺されて、田尻鑑種と蒲池統安が守る柳川城が攻略されました。このとき玉鶴姫は塩塚城に逃げますが、塩塚城も落城して玉鶴姫ほか侍女108人は自害又は殺害されて宗樹院に弔われました。天正12年(1560年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、戸次道雪と高橋紹運が鷹尾城を攻め落としましたが、柳川城は落城しませんでした。

立花宗茂の入封と改易

天正15年(1587年)に九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は立花宗茂に下筑後四郡を与え、三池郡は実弟の高橋統増(のちの立花直次)、三潴郡の一部は三池鎮実に与えられました。立花宗茂は柳川城を本拠としますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に属したため改易されました。

福岡県柳川市の柳川城跡

柳川城跡

立花氏により改修が進められ、田中氏により天守閣を備えた城となりました。明治5年(1872年)の失火により本丸・二ノ丸と天守は焼失しました。

江戸時代

筑後一国を領した田中吉政は、慶長7年(1602年)に慶長本土居と呼ばれる干拓堤防を築きました。田中氏は吉政の跡を継いだ忠政が元和6年(1620年)に没して無嗣断絶で改易されると、旧領主立花宗茂が領主として返り咲き、明治維新まで立花氏が藩主として治めました。

福岡県柳川市の川下り

水郷柳河

掘割とよばれる人工的な水路で、柳川藩主・田中吉政が城の防御や用水路の整備などを目的として改修しました。

福岡県柳川市の安東省菴墓

安東省菴墓

京都や江戸で儒学を学んだ安東省菴は、柳川で儒官として藩の子弟士の教育に当たり、中国明から長崎に亡命していた朱舜水を支援しました。

福岡県柳川市の立花氏庭園

立花氏庭園

4代藩主立花鑑任が元禄10年(1697年)に立花氏の別邸として御花こと松涛館を建て、明治時代に木造の洋館として改築されて九州の迎賓館なりました。

福岡県柳川市の戸島氏庭園

戸島氏庭園

寛政年間(1789~1800年)に築造された武家住宅を柳川藩中老の吉田兼儔が隠宅と庭園を建築したもので、のちに藩主に献上されたと伝えられます。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により柳河県となり三潴県に統合されましたが、明治9年(1876年)に福岡県に編入されました。昭和28年(1953年)の西日本水害で被害を受けました。

福岡県柳川市の北原白秋生家跡

北原白秋生家跡

酒造業を営む北原家の長男として生まれた北原白秋の生家で、明治34年(1901年)の沖端大火災で大半を焼失しますが、母屋を中心に復元しました。