歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

筑後市

福岡県筑後市の筑後広域公園

筑後市は福岡県の南西部に位置し、ほぼ平坦な筑後平野の中央に広がる田園都市です。温暖な気候と肥沃な土地に恵まれて米や麦の穀物類、ナシやブドウなどの果樹栽培のほか八女茶の栽培など農業が盛んに行われています。南部を流れる矢部川ではアユやモクズガニが獲れ、河畔には日本有数の炭酸含有量を誇る船小屋温泉郷があります。

概要

面積
41.78km2
人口
48,535人(2022年3月1日)
市の木
クスノキ
市の花
サザンカ
市の鳥
しらさぎ
地図

歴史

筑後平野の中央部で平坦な地形を生かして、古くから農耕が営まれて筑紫国磐井を中心とする豪族が誕生しました。中世は交通の要衝に位置する肥沃な大地を巡り争いが起こるようになりますが、江戸時代に宿場町が形成されるようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の角錐状石器などが出土し、縄文時代には裏山遺跡などで集落跡が確認されました。弥生時代には森ノ木遺跡で大規模な集落が造営され、蔵数東野屋敷遺跡などから甕棺墓や土坑墓が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

瑞王寺古墳や欠塚古墳など古墳時代の前方後円墳や円墳などの古墳があります。瑞王寺古墳は5世紀中ごろの円墳で朝鮮半島由来の鉄製馬具が出土しています。

福岡県筑後市の欠塚古墳

欠塚古墳

5世紀後半の前方後円墳で、大和朝廷に対して乱を起こした筑紫君磐井に関係があるとされます。

奈良時代、平安時代

古代官道である西海道駅路が敷設されて葛野駅家が置かれました。平安時代末期には京都の宝荘厳院領荘園として、久留米市南西部から柳川市に及ぶ三潴荘が成立しました。

鎌倉時代、南北朝時代

藤原家綱が西牟田郷の地頭として赴任し、西牟田氏を名乗り勢力を広げました。元寇では西牟田家永が防塁建築に従い、弘安の役では肥前鷹島で戦功を挙げました。寛元元年(1243年)には西牟田家綱(行西)が寛元寺を建立し、乾元元年(1302年)に西牟田長家が霊鷲寺を建立しました。

室町時代、安土桃山時代

菊池氏と大友氏の争乱の地となりました。大友氏が没落すると龍造寺氏や島津氏が侵攻するようになり、天正6年(1578年)に溝口城主・溝口重正が龍造寺隆信に攻められて落城しました。関ヶ原の戦いの直後には、西軍の立花宗茂と東軍の鍋島直茂が八院合戦と呼ばれる激しい戦いを繰り広げました。

福岡県筑後市の水田天満宮

水田天満宮

八院合戦で東軍として参戦した黒田如水(官兵衛)も豊前から参戦して水田天満宮に陣を置いたと伝えられます。

江戸時代

江戸時代中期に久留米藩御用窯として今日まで続く赤坂焼が始められました。赤坂焼の素焼きの土人形は赤坂人形として現在にも伝わる民芸玩具です。江戸時代後期には坊津街道(薩摩街道)に羽犬塚宿が整備され、筑後三宿のひとつとされました。

福岡県筑後市の山梔窩

山梔窩

久留米藩の勤王の志士・真木和泉守が藩政に失敗して謹慎した地で、真木和泉守は蛤御門の変で破れて長州の久坂玄瑞らと京都の天王山で自刃しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

昭和29年(1954年)に筑後市が誕生しました。

福岡県筑後市の船小屋温泉郷

船小屋温泉郷

文化年間に村の大庄屋が井戸を掘り当てたのが始まりで、明治19年の分析で日本一の含鉄炭酸泉と認められ、戦傷軍人の湯地場に指定されました。