行橋市

行橋市は福岡県の北東部に位置し、東は周防灘に面して西には平尾台のカルスト地形の山が巡ります。ほぼ全域が平野部で、今川、長峡川、祓川が周防灘に流れ込んでいます。京都平野では水田地帯が広がり、山間部はイチジクなどのフルーツが特産で、沿岸部はシャコやワタリガニの漁のほか牡蠣の養殖が盛んです。
概要
- 面積
- 70.06km2
- 人口
- 70,949人(2022年3月1日)
- 市の木
- モクセイ
- 市の花
- コスモス
- 地図
歴史
瀬戸内海に面して太宰府や宇佐に通じることから、古くから大陸と畿内を結ぶ交通の要衝でした。7世紀には敵の侵攻を監視、妨害する御所ヶ谷神籠石が建てられ、旧豊前国の中心地域として栄えて多くの文化財が残されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
後期旧石器時代の渡築紫遺跡から石器が見つかりましたが、縄文時代は福丸遺跡、竹並遺跡、節丸西遺跡に集落がつくられました。弥生時代には下稗田遺跡や延永ヤヨミ園遺跡、辻垣遺跡群などに集落跡が残されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期に石塚山古墳やビワノクマ古墳が造られ、古墳時代終末期には渡築紫古墳群など群集墳や横穴墓群が盛んに造られました。飛鳥時代に古代山城である御所ヶ谷神籠石や古代寺院の椿市廃寺などが建てられました。

ビワノクマ古墳
長峡川と小波瀬川に挟まれた丘陵に築かれた古墳時代前期の前方後円墳で、盛土の下にはそれ以前の墓地が見つかりました。

御所ヶ谷神籠石
天智天皇2年(663年)に建てられた古代山城で、景行天皇がこの地に行宮が設けられた伝承が残ります。
奈良時代、平安時代
九州の北東部は豊前国となり、市域の西側は京都郡で東側は仲津郡となりました。

福原長者原官衙遺跡
7世紀末頃から8世紀前半の古代役所で、豊前国府または仲津郡衙にあたります。
鎌倉時代、南北朝時代
文治3年(1187年)に宇都宮信房が豊前国の地頭職として城井谷に入りました。13世紀になると武藤氏が大宰府に降り、官職から少弐氏と称されて京都平野を領しました。
室町時代、安土桃山時代
応永10年(1403年)に大内盛見が豊前国守護に任命され、九州を拠点とする少弐氏や秋月氏、九州への進出をはかる大内氏や毛利氏が争いとなりました。戦国時代末期には大友氏と大内氏の戦いの過程で長野氏が馬ヶ岳城に拠点を移し、天正14年(1586年)の豊臣秀吉は九州平定にあたり、馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門尉が黒田孝高や毛利氏の軍を迎え入れました。豊臣秀吉は九州を平定すると、黒田孝高に豊前国を与えました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの功績で細川忠興と忠利が領主となり、寛永9年(1632年)に細川氏の移封に伴い小笠原長次が領主となりました。

仏山塾(水哉園)跡
村上仏山が(1835年)に開いた私塾で、明治15年(1882年)までに約3千人もの塾生が通学または寄留しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和18年(1943年)に築城飛行場が作られましたが、戦況が悪化して空襲を受けるようになりました。昭和29年(1954年)に行橋市が誕生しました。

海軍築城航空基地稲童掩体
敵の空襲から軍用飛行機を守る目的でつくられた格納庫で、稲童地区には大型・小型、有蓋・無蓋合わせて約30基の掩体が築かれたと伝わります。