歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

小郡市

福岡県小郡市の如意輪寺

小郡市は福岡県の南部に位置し、筑紫平野の北部にあり宝満川が市域を貫流しています。市北部の低い丘陵が続きますが、花立山を除いて標高100メートル以上はないほぼ平坦な地形をしており、貫流する宝満川が市街地と田園地帯を分けています。

概要

面積
45.51km2
人口
59,252人(2022年3月1日)
市の木
クスノキ
市の花
フジ
市の鳥
シラサギ
地図

歴史

三国丘陵や花立山麓で生活していた古代の人びとは広大な平野で農耕を行うようになり、多くの豪族が生まれていきました。江戸時代には大宰府と博多を結ぶ交通の要衝として宿場町が置かれ、井堰や水路が整備されて田園地帯を形成していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

狩猟採取していた縄文時代は三国丘陵や花立山麓に多くの遺跡が見つかり、大崎井牟田遺跡から集石炉が、大保横枕遺跡から落とし穴と石組炉が見つかりました。稲作文化が浸透した弥生時代の遺跡は復数あり、力武内畑遺跡からは井堰、大板井遺跡から大型の住居跡が残されており、小郡若山遺跡からは銅鏡が発見されています。

福岡県小郡市の三沢遺跡

三沢遺跡

弥生時代中期の竪穴住居跡や貯蔵穴などからなる集落跡で、丘陵ごとに家族単位で生活し、複数の家族が集り農村集落を営んでいました。

古墳時代、飛鳥時代

400基以上の古墳が造営されて、3世紀末の津古生掛古墳から鶏型土製品が出土したほか、4世紀後半の三国の鼻1号墳から鏡などが見つかりました。九州一の豪族である筑紫君磐井が継体天皇21年(527年)に磐井の乱を起こしたあとの6世紀後半から7世紀には花立山に群集墓が造営されています。持統天皇3年(689年)に新羅の使者金道那を客館でもてなした記録があります。

福岡県小郡市の花立山穴観音古墳

花立山穴観音古墳

6世紀後半の前方後円墳で、石室の壁面には線を刻んだ線刻が見られます。線刻は魔除けの意味が込められていると考えられています。

奈良時代、平安時代

大宰府に近く博多に通じる交通の要衝として官衙が置かれ、九州最古の寺院となる上岩田遺跡が創建しました。天武7年(678年)の筑紫国大地震が起こり、上岩田遺跡の金堂基壇に地割れ跡が見つかりました。

福岡県小郡市の小郡官衙遺跡群(小郡官衙遺跡)

小郡官衙遺跡群(小郡官衙遺跡)

7世紀末につくられた筑後国御原郡の役所の跡で、庁舎や官舎のほか税として取り立てた米を蓄える倉庫が計画的に配置されていました。

福岡県小郡市の小郡官衙遺跡群(上岩田遺跡)

小郡官衙遺跡群(上岩田遺跡)

7世紀後半から8世紀前半の遺跡で寺院と建物群が一体化していることから、信仰を利用して中央政権が地方統治を進めていました。

鎌倉時代、南北朝時代

正平14/延文4年(1359年)に九州南北朝最大の大保原の戦い(筑後川の戦い)が起こりました。懐良親王と菊池武光を中心とした南朝方と少弐頼尚を中心とした北朝方が衝突して激しい戦いとなりました。戦いは南朝方が勝利して大宰府に入りますが、文中元年(1372年)に北朝方の九州探題今川了俊が奪い返しました。文中3年(1374年)に両者は福童原の戦いとなり、北朝方が勝利して南朝方は勢力が弱まることになります。

室町時代、安土桃山時代

九州探題が今川了俊から渋川満頼に交代すると、少弐氏や菊池氏が反旗を翻しました。渋川氏は大内氏に援助を求めたことで、大内氏と少弐氏・大友氏で争いとなりました。大内氏が没落すると毛利氏や龍造寺氏、島津氏の侵攻を受けますが、豊臣秀吉の九州征伐で小早川秀包を経て小早川秀秋に与えられました。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功で小早川秀秋が備前岡山に移り、翌年に田中吉政が領主となりました。元和6年(1620年)に家督を継いだ田中忠政が無嫡男のまま没すると、有馬豊氏が北筑後に入り久留米城を中心に統治しました。

松崎藩の成立と廃止

寛文8年(1668年)に有馬豊範に松崎領が与えられて松崎藩が成立し、坊の津街道や筑前街道の交通の要衝に松崎宿が設置されましたが、貞享元年(1684年)に松崎藩は幕府から没収されて廃藩となりました。

藩財政の悪化と農民一揆

久留米藩の財政が深刻になると、久留米藩は正徳2年(1712年)に年貢の取立てを変更し、享保13年(1728年)には夏物成の上納を増やして農民一揆が起こり、享保17年(1732年)の大飢饉で大きな犠牲が出たあとの宝暦4年(1754年)に久留米藩が人別銀の上納を求めたことで宝暦の農民一揆が起きました。

高松凌雲と同愛社

天保7年(1836年)に御原郡古飯村に生まれた高松凌雲は、久留米藩を脱藩して医師の修行を行い、慶応元年(1865年)に一橋家に仕えて徳川慶喜の医師を務めました。慶応4年(1868年)の箱館戦争では、箱館病院を設立して旧幕府軍、新政府軍双方の負傷者を治療し、明治12年(1879年)には同愛社を設立しています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で久留米県となり、すぐに三潴県となりました。明治9年(1876年)に三潴県と福岡県が合併して現在と同じ範囲の福岡県が成立しました。昭和28年(1953年)に筑後川大水害が、昭和38年(1963年)に宝満川大水害で大きな被害を受けました。昭和47年(1972年)に市制を施行して小郡市が誕生しました。