筑紫野市

筑紫野市は福岡県中央部の西よりに位置し、博多湾へ注ぐ御笠川・那珂川水系と有明海に注ぐ宝満川水系が貫流します。古来より交通の要衝として多くの人や物が往来した土地柄で、日本最古の和歌集である万葉集で次田温泉として登場する二日市温泉は、博多の奥座敷と称されました。
概要
- 面積
- 87.73km2
- 人口
- 104,570人(2022年3月1日)
- 市の木
- ツバキ
- 市の花
- サルビア
- 地図
歴史
九州北部の筑紫の地はアジア大陸に近い立地を生かして、古くから奴国が大陸から文化の影響を受けました。遠の朝廷と言われる大宰府が置かれてからも大陸との交流拠点として繁栄します。江戸時代には長崎街道や薩摩街道、日田街道が通り、二日市宿や筑前六宿の山家宿、原田宿が賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
野黒坂遺跡や峠山遺跡などで狩猟で使用された石器が発見されています。縄文時代早期の原遺跡から石組みの炉と押型文土器などが見つかりましたが、縄文時代前期~中期の遺跡は見当たりません。弥生時代前期や中期には丘陵上で集落や墓地が営まれ、弥生時代後期になると次第に丘陵から平野に移り住むようになりました。
古墳時代、飛鳥時代
数多くの古墳が築かれ、原口古墳から三角縁神獣鏡が出土しました。白村江の戦いでの敗戦を契機に基肄城が築かれました。

五郎山古墳
6世紀後半の円墳で人物や動物、船や家などの壁画が残ります。壁画は被葬者の生前の様子や黄泉の世界を表現したものと言われます。

基肄(椽)城跡
唐や新羅の侵攻に備えて、天智天皇3年(665年)に基山に築かれた古代山城です。筑紫野市には北帝門跡、東北門跡などがあります。

阿志岐山城
御笠平野に突き出す宮地岳北麓に築かれた古代山城です。築造年代は分かりませんが、精緻に加工された石材や土塁の築造などに高い技術が導入されました。
奈良時代、平安時代
大宰府は軍事的役割から政治・経済的役割を担う政庁として整備され、筑紫野市の北部を含む範囲で「条坊制」という都市計画が行われていたと考えられています。発掘調査でも、鴻臚館から大宰府へ向かう官道、大宰府の中央を貫く朱雀大路と考えられる道路跡、大宰府から米ノ山峠を抜け豊前に至る官道、その最初の駅で万葉集にも詠まれた蘆城駅家の可能性がある遺跡が発見されています。

宝満山
古来より祈りの山と呼ばれ、命がけの渡海の平安を祈る場でした。延暦22年(803年)に最澄が唐への渡海の安全を願いました。

塔原塔跡
塔の心礎で7世紀代の寺院の存在をしめします。出土した瓦は大和(奈良県)山田寺の軒瓦に系譜があり、畿内との交流を示唆します。

武蔵寺跡
今昔物語集や梁塵秘抄に登場する九州最古の古代寺院で、平安時代後期の大治元年(1126年)銘の経筒が見つかりました。
鎌倉時代、南北朝時代
経済活動が活発で、中国や朝鮮半島製の陶磁器や美濃・京都・備前などの国産陶器が出土しています。
室町時代、安土桃山時代
筑紫氏・高橋氏(大友氏勢力)と島津氏の戦いが繰り広げられ、市内の山に多くの山城や館がつくられました。市内にはこの戦いでの逸話も伝わります。
江戸時代
黒田家が福岡藩を立藩しました。長崎街道や薩摩街道、日田街道が整備され、二日市宿、筑前六宿の山家宿、原田宿が設置されました。

山家宿西構口並びに土塀
長崎街道の筑前六宿のひとつである山家宿に設けられた土塀で、慶長16年(1611年)に初代代官の桐山丹波守により造営されたとされます。

山家宿郡屋跡
村役人が集まり郡奉行の通達を受け取り参勤交代の人馬役の打ち合わせなどをする施設です。明治維新で建物が取り壊され基礎が残ります。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和20年(1945年)の第二次世界大戦では、西鉄筑紫駅列車が米軍機から銃撃を受けて100名余りが犠牲となりました。昭和47年(1972年)の市制施行により筑紫野市が誕生しました。