大野城市

大野城市は福岡市の南に位置し、博多と大宰府を結ぶ交通の要衝としての役割を果たしてきました。奈良時代には日本最古の古代山城である大野城が築城して町の名前の由来となりました。明治時代の交通網の整備で農村と化しますが、戦後に福岡市のベッドタウンとして繁栄しました。
概要
- 面積
- 26.89km2
- 人口
- 102,262人(2022年3月1日)
- 市の木
- クロガネモチ
- 市の花
- キキョウ
- 市のキャラクター
- まどかちゃん、ハバリィ、大野ジョー、タスケ
- 地図
歴史
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
後期旧石器時代の遺跡として横峰遺跡、出口遺跡などがありますが、縄文時代の遺跡は少ないです。弥生時代中期の竪穴住居跡や井戸などが本堂遺跡に残され、中・寺尾遺跡、御陵前ノ椽遺跡、梅頭遺跡から弥生時代の甕棺墓が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
倭・百済連合軍が白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗すると、唐・新羅連合軍から攻められることを恐れて水城や大野城などが築かれて、博多湾沿岸の拠点が太宰府市域に移されました。

善一田古墳群
6世紀後半~7世紀後半にかけて造営された30基の古墳が密接する群集墓で、鉄器づくりや朝鮮半島との交流に関わる人たちが埋葬されました。

大野城跡
天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで敗れた大和王権は、大宰府を守るために百済から亡命した憶礼福留と四比福夫に命じて大野城を築城しました。

水城跡
築造技術には百済最後の王都である扶余の羅城と同じ技術が採用された古代山城で、水を貯えた濠と土塁とからなるため水城と名付けられました。

牛頸須恵器窯跡
6世紀中期~9世紀にかけて創業した西日本最大の須恵器生産地で、奈良時代から平安時代前期にかけて大宰府の食器を生産しました。
奈良時代、平安時代
継体天皇21年(527年)に筑紫君磐井の乱が起こり、宣化天皇元年(536年)に那津之口に修造された那津官家が、白村江の敗戦に伴い内陸に移されました。
鎌倉時代、南北朝時代
中国元軍が博多湾に侵攻した元寇で大宰府でも戦闘が起きたと推定されており、大野城市域でも戦闘が起きた可能性があると言われます。
室町時代、安土桃山時代
大利村、瓦田村、白木原村などが大宰府の安国寺領とされていました。市域にある唐山城は大友方の拠点で、牛頸不動城は前養父郡の勝尾城を本城とする筑紫氏の端城とされています。最終的には豊臣秀吉の九州征伐により両城は平定されました。
江戸時代
寛永3年(1750年)に新川が開削して年貢米が運ばれましたが、水量が少なく舟での往来が難しいため宝暦12年(1762年)に一部が埋め立てられました。博多宿と二日市宿の中間に雑餉隈が置かれたほか、大宰府往還と呼ばれた日田街道を利用する太宰府天満宮の参詣者などで繁栄しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治22年(1889年)の駅舎建設に反対して参詣者が汽車に取られたことで、宿場町としての繁栄は影をひそめて農村と化しました。昭和11年(1936年)から工場が進出しますが、太平洋戦争により昭和18年(1943年)に海軍管理工場へと変化して佐世保などの海軍工廠へ納品されました。戦後は福岡市の発展に伴い住宅地が広がり、昭和47年(1972年)の市制施行により大野城市が誕生しました。