歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

うきは市

福岡県うきは市の筑後吉井の白壁

うきは市は福岡県東南部の筑後川中流域に位置し、扇状に広がる筑紫平野の最奥部に位置する田園都市です。南に耳納連山があり北に筑後川が流れ、筑後川流域では水田が広がり、山麓部では柿や梨などのフルーツ生産が盛んになりました。

概要

面積
117.46km2
人口
27,538人(2022年2月1日)
市の木
柿の木
市の花
彼岸花
市の鳥
カワセミ
地図

歴史

街道や航路などの交通の要衝で、九州一の豪族である筑紫君磐井が統治していました。大和王権が磐井の乱を鎮めると大和王権の勢力下となりました。江戸時代には筑後吉井は江戸時代に久留米有馬藩と日田天領を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

筑後川流域で唯一の新川遺跡で旧石器時代の遺構が発見されています。縄文時代の柳瀬遺跡では孔列文土器が出土して朝鮮半島とのつながりが示されています。弥生時代に小国家が形成して争うようになり、日永遺跡からは銅戈と銅矛が一緒に出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀前半に景行天皇が九州南部の熊襲を平定した帰りに訪れました。このときに杯を意味する酒盞(うき)を忘れて嘆いたことから「うきは」と呼ばれるようになりました。九州一の豪族である筑紫君磐井が継体天皇21年(527年)に磐井の乱を起こしました。

福岡県うきは市の日岡古墳

日岡古墳

月岡古墳の隣にある全長74メートルの前方後円墳で、横穴式石室の形態や装飾古墳から6世紀前半に築造されたと考えられています。

福岡県うきは市の屋形古墳群(珍敷塚古墳)

屋形古墳群(珍敷塚古墳)

6世紀の円墳で、奥の壁に描かれた壁画にはゴンドラ形の船が描かれており、太陽の輝く陽の世界から月の支配する陰の世界へ旅立つ様子とされています。

福岡県うきは市の屋形古墳群(鳥船塚古墳)

屋形古墳群(鳥船塚古墳)

6世紀後半の円墳で墳丘は焼失しています。石室の奥壁に同心円文と船、大きな盾や2個の靭が描かれています。

福岡県うきは市の屋形古墳群(古畑古墳)

屋形古墳群(古畑古墳)

6世紀後半の複数の横穴式石室に描かれた壁画のある2段築成の円墳です。奥壁と側壁の一部に赤色の顔料で同心円文や三角文などが描かれています。

福岡県うきは市の屋形古墳群(原古墳)

屋形古墳群(原古墳)

6世紀後半に築造された円墳で、単室の横穴式石室があり、奥壁の腰石と側壁の一部に赤色の壁画が残ります。

福岡県うきは市の塚花塚古墳

塚花塚古墳

6世紀後半の円墳で、奥壁を主体として赤・緑・黄色で大型の蕨手文や同心円をはじめとした紋様が描かれています。

福岡県うきは市の楠名・重定古墳

楠名・重定古墳

重定古墳は6世紀後半に造営されて戦時中で防空壕として使用されました。7世紀前半の楠名古墳は玄室より前室が大きい特異な形状をしています。

奈良時代、平安時代

律令制が導入されて全国に条里制の地割が引かれました。耳納山麓一帯には現在もその区割りが確認できます。

鎌倉時代、南北朝時代

主に南朝方の星野氏と北朝方の問注所氏が支配して、山城や出城が築かれて麓に居館が置かれました。正平14年(1359年)に関ヶ原の戦い、川中島の戦いと並んで日本三大合戦とも呼ばれる大原の戦い(筑後川の戦い)が起こりました。星野氏や問注所氏も参戦した激しい戦いは、懐良親王を迎えた菊池武光などの南朝勢力が勝利しました。

室町時代、安土桃山時代

特に記録は見つけられませんでした。

江戸時代

城下町久留米と日田天領を結ぶ豊後街道の宿場町として大いに賑わいました。栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞は、寛文3年(1663年)に筑後川の灌漑工事を久留米藩に願い出て、翌年から工事を開始して水田を潤しました。造営された水路は水位の高低差を利用して水車の動力となり、製粉により九州三大麺どころに成長しました。

福岡県うきは市の大石長野水道

大石長野水道

五庄屋は久留米藩に申し出て、私財を投じて大石村長瀬に取水門を設けて水路を開削して用水を長野まで流下させました。

福岡県うきは市の筑後吉井の白壁

筑後吉井の白壁

精蝋、酒造、菜種の製油など農産物加工品の製造が盛んになり、吉井銀と称された有力商人による金融活動などにより繁栄しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)の大火を契機として、吉井では草葺の町家にかわり瓦葺塗屋造が普及しました。昭和30年代から柿や梨などのフルーツ生産に取り組み、フルーツ王国となりました。平成17年(2005年)にうきは市となりました。