糸島市

糸島市は福岡県西部の糸島半島に位置し、田園地帯が広がる糸島平野の北側には玄界灘に面した美しい海岸線が広がります。万葉の歌にも詠まれた糸島富士と呼ばれる可也山、神秘的な景観の芥屋の大門や桜井二見ヶ浦、美しい海岸線を有した幣の浜や鳴き砂で知られる姉子の浜、脊振山系からの清流が流れる白糸の滝や千寿院の滝などの名勝があります。
概要
- 面積
- 215.70km2
- 人口
- 99,821人(2022年3月1日)
- 市の木
- カエデ(モミジ)
- 市の花
- ハマボウ
- 市の色
- 黄色
- 地図
歴史
弥生時代に魏志倭人伝に記されている伊都国があり、中国大陸、朝鮮半島との中継地点として倭国の重要な政治的拠点として国際関係の緊張の高まりで古代山城が築かれました。中央集権化が進むと怡土郡七ヶ寺が創建するなど繁栄し、やがて覇権を巡り各地の勢力が争う場となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の人びとの痕跡は少なく、縄文時代に狩猟採集を生業とする人びとの定住が進み、海岸線沿いに新町貝塚、天神山貝塚、桑原飛櫛貝塚、元岡瓜尾貝塚などが分布しました。縄文時代晩期には原始的な農耕が行われ、広田遺跡から土掘り具や収穫具として使われた石器が出土しています。弥生時代に稲作が行われ、石崎曲り田遺跡から朝鮮半島系の丹塗磨研土器や磨製石器、紡錘車などとともに炭化米が出土し、わが国最古例となる板状鉄斧も出土しています。
古代国家・伊都国
伊都国は魏志倭人伝に記された国の一つで、邪馬台国に服属して中国大陸、朝鮮半島との中継地点として倭国の重要な政治的拠点でした。三雲南小路、井原鑓溝、平原の三王墓から大量の銅鏡をはじめ、青銅製品、装身具、武器類など大陸や朝鮮半島からもたらされた貴重な品が出土しています。伊都国は三雲・井原遺跡を中心集落として、小平野ごとに拠点を置いて機能分化した集落が形成していました。

白糸の滝
羽金山の中腹に位置する落差24メートルの滝です。清流が白い糸のように流れて冷涼地として多くの観光客が訪れます。

桜井二見ヶ浦
三重県伊勢二見浦の朝日の二見浦に対して、夕日の二見ヶ浦として知られてます。沖にある夫婦磐は櫻井神社の宇良宮として祀られているご神体です。

志登支石墓群
弥生時代早期~中期の支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されました。支石墓に副葬品が納められるのは珍しく、柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語ります。

新町支石墓群
大陸に由来する墳墓である支石墓の確認や副葬小壺の出土にくわえて、日本で初めてとなる弥生時代早期の戦死者の人骨などの発見で大きく注目を浴びました。

三雲・井原遺跡
弥生時代中期の後半の三雲南小路王墓と弥生時代後期前半の井原鑓溝王墓と考えられています。この頃は伊都国の隣の奴国が後漢皇帝から金印を下賜されています。

曽根遺跡群(平原遺跡)
福岡県糸島市にある弥生時代後期の遺跡群で、伊都国の王墓とされて平原王墓とも呼ばれます。日本最大サイズの内行花文鏡や日本最多の40枚の銅鏡が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
近畿を中心とした大和王権が確立すると、伊都国もこの体制に組み込まれていきました。4世紀後半から5世紀になると、古墳文化の画期となる横穴式石室が大陸から伝えられています。国際関係の緊張が高まると、北部九州防衛の拠点として雷山神籠石と怡土城の古代山城が築かれました。

銚子塚古墳
4世紀後半に築造されたと考えられている糸島地方最大の前方後円墳で、石室からほぼ完ぺきな形で方画規矩四神鏡や内行花文鏡などの副葬品が出土しました。

釜塚古墳
5世紀前半に築造された北部九州最大級の円墳で、低湿地に人工的な盛土で造られており、特徴的な珍しい石室があるのも特徴です。

曽根遺跡群(狐塚古墳)
5世紀前半に築造された大型円墳で、怡土平野の首長の墓と考えられています。石室の内から漆塗りの竪櫛、外からは鉄矛が2本出土しました。

曽根遺跡群(ワレ塚古墳)
古墳時代中期の5世紀末に築造されたと考えられる帆立貝形前方後円墳で、前方部の周壕からは馬形の形象埴輪や壺や高坏などの須恵器が出土しました。

曽根遺跡群(銭瓶塚古墳)
古墳時代中期の5世紀末に築造されたと考えられる帆立貝形前方後円墳で、周壕からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物形埴輪や岩偶などが出土しています。

雷山神籠石
雷山の北中腹に築かれた古代山城で、7世紀中葉に築造されたと考えられます。谷の南北に築かれた水門と東西に延びる列石群を見ることができます。

怡土城跡
高祖山の西斜面一帯に築かれた古代山城で、神護景雲2年(768年)に完成しました。中国式山城の築城法は、遣唐使で覇権された吉備真備の影響と言われます。
奈良時代、平安時代
中央集権化が進んで全国に官道が整備されると、塚田南遺跡と曲り田遺跡で深江駅家と推定される道路と側溝、大型掘立柱建物などが検出されています。各地に国分寺・国分尼寺が建てられるようになる頃に、雷山千如寺、染井山霊鷲寺、鉢伏山金剛寺、小倉山小蔵寺、楠田寺、一貴山夷巍寺、久安寺の7つの大寺が創建されて怡土郡七ヶ寺と称せられました。寛仁3年(1019年)には女真族が糸島地域のほか北部九州沿岸地域を荒らした刀伊の入寇が起こり、死者161人の甚大な被害を出しました。
鎌倉時代、南北朝時代
怡土荘が成立して承久の乱の後に地頭が設置されした。怡土荘内の今津は大隅国の異国警固番役地にあたり、大隅守護千葉氏が支配しました。弘安の役の恩賞で大友氏が志摩方三百町惣地頭職を獲得し、次第に大友氏や北条氏の勢力が浸透して中国との交易を経済基盤にしました。
室町時代、安土桃山時代
豊後国の大友氏と周防国の大内氏の覇権争いの場となり、両氏に属した臼杵氏と原田氏が幾度となく戦闘を繰り広げましたが、大友氏の衰退もあり最終的には原田氏が優勢となりました。原田氏は高祖城を本拠として最盛期には怡土・志摩両郡と早良郡西部、松浦郡東部にまで勢力を伸ばしました。
江戸時代
糸島地域の北部と東部は福岡藩に属しましたが、西部は多数の領地に分割されて唐津藩、中津藩、幕府、対馬藩の領地が混在しました。唐津と北九州を結ぶ唐津街道が整備されると深江、前原、今宿の3箇所に宿場町が置かれました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治29年(1896年)に怡土郡と志摩郡が合併して糸島郡が成立しました。平成4年(1992年)に前原町が市制を施行して前原市となり、平成22年(2010年)に1市2町が合併して糸島市が誕生しました。