歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

那珂川市

福岡県那珂川市の筑紫耶馬溪

那珂川市は、福岡県の西部に位置し那珂川が市の中央を南北に貫流しています。水と自然に恵まれてのどかな田園風景が広がり、稲作をはじめホウレンソウなど野菜の生産や酪農が盛んで、スギやヒノキなどの木材も多く産出されています。

概要

面積
74.95km2
人口
49,929人(2022年3月1日)
市の木
ヤマモモ
市の花
筑紫シャクナゲ
市の鳥
カワセミ
地図

歴史

那珂川市域は、魏志倭人伝などの1~3世紀前半の中国の史書に記されている奴国があり、その政治的・軍事的中心とされていたと言われます。朝鮮出兵(三韓征伐)を図る神功皇后は、裂田溝を開削して神田を開いたとされます。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

文献に現れる最古の国家である奴国があり、中国後漢と交流しました。弥生時代中期から鎌倉時代にかけて営まれた宗石遺跡群からは、石器や土器の破片などが数多く見つかりました。

福岡県那珂川市の安徳台遺跡

安徳台遺跡

弥生時代から室町時代の遺跡で、弥生時代の遺跡からは大型の住居跡、大陸や朝鮮半島色の強い遺物、甕棺墓と豪華な副葬品が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期の松木遺跡群に大集落が営まれ、6世紀には42基におよぶ丸ノ口古墳が造営されました。神功皇后は朝鮮出兵(三韓征伐)の成功を祈るために裂田溝を開削して神田開発を行いました。

福岡県那珂川市の安徳大塚古墳

安徳大塚古墳

4世紀後半に造られた前方後円墳で麓には古代の人口用水路である裂田溝が流れています。

福岡県那珂川市の裂田溝

裂田溝

奈良時代以前の人工用水路で、神功皇后が武内宿禰に命じて神に祈りを捧げさせ、落雷で岩が裂けて開削に成功した伝承が残されています。

奈良時代、平安時代

肥前神埼荘、岩門荘と博多を結ぶ肥前・筑前街道が整備され、年貢米や貿易品を運ぶために利用されました。延久5年(1073年)に原田種資が移住して岩門城を本拠としました。寿永2年(1183年)に木曽義仲に敗れて九州に逃れた安徳天皇を原田種直が迎えて安徳台に仮の御所が置かれたとされます。安徳天皇は元暦2年(1185年)に壇ノ浦で入水して果て、安徳天皇を偲んで安徳宮が建てられました。

鎌倉時代、南北朝時代

原田氏に代わり武藤資頼が太宰少弐として入り、やがて少弐氏を名乗るようになりました。岩門城は博多と太宰府の中間で守りの拠点となり、岩門城主少弐景資は、元寇の際に九州武士団の総大将として活躍しました。弘安8年(1285年)に少弐景資は霜月騒動で挙兵して北条得宗家に反旗を翻しますが、岩門合戦で北条得宗家に与した少弐経資に敗れて戦死しました。

室町時代、安土桃山時代

足利一門の渋川満頼が九州探題兼肥前守護となり、岩門城は渋川氏が居城としました。明応5年(1496年)に少弐政資が岩門城を支配しましたが、渋川氏の要請で大内氏が奪還して大内氏の支配下となりました。大内氏が衰退すると、大友氏や毛利氏が城を巡り争いました。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、小早川秀秋が岡山藩に移封となり、黒田長政が福岡藩を立藩しました。飢饉などで苦しむ村民の生活安定のため、高橋善蔵はロウソクの原料となるハゼの栽培や利用方法の研究を行い、延享4年(1747年)に窮民夜光の珠に纏めました。

明治時代、大正時代、昭和時代

昭和31年(1956年)に那珂川市が誕生しました。