糟屋郡

糟屋郡は福岡県北西部の福岡平野にある豊かな自然に恵まれている地域です。福岡市に接して博多地区や福岡空港へのアクセスが便利なため流通や産業が盛んになりました。福岡市のベッドタウンとして栄えたことで、郡として全国で最大の人口を誇ります。
概要
- 面積
- 164.64km2
- 人口
- 234,471人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 宇美町、篠栗町、志免町、須恵町、新宮町、久山町、粕屋町
- 地図
歴史
江戸時代に福岡藩の藩窯となる皿山焼が起こり、日本四大眼科のひとつ田原眼科が開業して眼病治療の宿場町として栄えました。明治時代を迎えて石炭産業により発展しましたが、エネルギーの需要が石炭から石油に移り変わると、福岡市の発展に伴いベッドタウンへと変化しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
乙植木山城戸遺跡から旧石器時代の石器類が出土し、縄文時代の浦尻遺跡や光正寺遺跡から石鏃が発見されています。弥生時代早期の江辻遺跡群からは朝鮮半島から伝えられた松菊里型の住居跡が見つかり、川原田・供田遺跡や上角遺跡からも住居跡などが見つかりました。弥生時代後期には九州最大級の箱式石棺墓である亀山石棺のほか原石棺群などが造営されました。

鼻栗瀬および鼻面半島
めがね岩とも呼ばれる奇岩と柱状節理が発達した丘陵状の半島で、黒田藩が朝鮮通信使を接待したことで知られる景勝地です。

宇美八幡宮
仁徳天皇50年(362年)に神功皇后が朝鮮から戻り、應神天皇が生まれたことで宇美と名付けられた伝承がある神社です。
古墳時代、飛鳥時代
筑紫君の磐井は、継体天皇21年(527年)に大和王権に対して磐井の乱を起こして殺害され、磐井の子である葛子は糟屋屯倉を大和王権に献上して罪を逃れました。

光正寺古墳
3世紀後半の最古級の前方後円墳で、魏志倭人伝が記された時期に重なり糟屋地区で最大の古墳のため、不彌国の王の墓と考えられてます。

七夕池古墳
4世紀末に築造された糟屋地区最大の円墳で、琴柱形石製品や刀、鏡のほか、3300もの玉が出土しています。

相島積石塚群
4世紀~7世紀にかけて造られた古墳群で、254基の積石塚が確認されています。朝鮮半島の国家・伽耶の須恵器も見つかりました。

大野城跡
天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで敗れた大和王権は、大宰府を守るために百済から亡命した憶礼福留と四比福夫に命じて大野城を築城しました。
奈良時代、平安時代
遣唐使として中国唐で天台の教えを学んだ最澄は、延暦24年(805年)に帰国して布教の拠点を求めました。最澄が独鈷を投げると立花山へと飛んで行き、それを追う途中で猟師の源四郎に出会い、源四郎の家に滞在して布教を行いました。最澄は源四郎に横大路の姓や毘沙門天の像、法理の火、岩井の水を授けました。

首羅山遺跡
中世山岳寺院の遺跡で、天平年間(729~749年)に百済から来た白山権現の虎を村人が恐れて、首を切り落として羅物に包んで埋めたことから名付けられました。

阿恵官衙遺跡
7世紀後半から8世紀にかけて筑前国糟屋評の役所跡で、役所の中心施設である政庁跡、税として集めた米を保管した正倉跡、古代の道路跡が発見されました。
鎌倉時代、南北朝時代
元徳2年(1330年)に豊後国大友家6代・大友貞宗の次男である大友貞利が、貿易の拠点である博多を抑えるために立花城を築城しました。
室町時代、安土桃山時代
応永10年(1403年)に豊前国守護を命ぜられた大内盛見は、筑前国に侵攻して大友氏や菊地氏・少弐氏と激しく対立するようになり、永享3年(1431年)に大友持直・少弐満貞との戦いで戦死しました。元亀2年(1571年)に立花道雪が立花城主となりますが、立花道雪には一人娘誾千代しかいないため、高橋紹運の子・高橋統虎を養子に迎え立花宗茂として跡を継ぎました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に黒田長政が福岡に入り初代藩主となりました。宝永3年(1710年)に大洪水で大きな被害を生じますが、寛政5年(1793年)に小林酒造初代当主の小林作五郎が私財を投じて農政整理して二又瀬橋の修築などを行いました。江戸時代中期に日本四大眼科のひとつ田原眼科が開業して須恵町は眼病治療の宿場町として栄えました。

福岡藩磁器御用窯跡
新藤安兵が白土を発見して宝暦14年(1764年)に肥前陶磁の技術で開窯して始めた皿山焼は、天明4年(1784年)に福岡藩の藩窯となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治22年(1889年)に海軍が須惠村新原で石炭採掘を始め、昭和13年(1938年)に三菱勝田鉱業所が創設するなど石炭産業により発展しました。昭和30年頃に志免炭鉱の民間払い下げに反対する組合員が志免闘争を起こして国営として稼働し続けましたが、エネルギー転換により石油に依存するようになると炭鉱は閉鎖されました。

志免鉱業所跡
明治22年(1889年)に海軍が新原採炭所を開いて軍艦や工業用の燃料となる石炭を掘り出し、昭和12年(1937年)には全国有数の出炭量を誇りました。