三井郡

三井郡は福岡県南部の筑後川の中流北岸に位置し、筑後平野に含まれた平坦な地形をしています。南部には日本三大河川のひとつである筑紫次郎こと筑後川が緩やかに流れて沖積層の肥沃な大地を形成しています。
概要
- 面積
- 22.84km2
- 人口
- 15,624人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 大刀洗町
- 地図
歴史
大保原(筑後川)の戦いで勝利した菊池武光は、追撃して進出した山隈原で血まみれの太刀を小川で洗い流しました。大刀洗町の地名は、この故事に由来しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
春園遺跡で旧石器が確認され、甲条神社遺跡から縄文時代の土坑や弥生時代の甕棺墓などの墓が確認されています。弥生時代終わりには西森田遺跡で集落跡が見つかり、高樋塚添遺跡から土壙墓や甕棺墓が発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
高樋小道遺跡は弥生時代後期から古墳時代にわたる環濠集落と考えられています。甲条北松木遺跡には弥生時代から古墳時代までの各種の墓が造営されました。
奈良時代、平安時代
宝満川東岸の小高い丘に下高橋官衙遺跡が置かれました。天慶4年(941年)の藤原純友の乱を平定した功で、大蔵春実に下高橋などが与えられました。大蔵春実は高橋城を築いて拠点として高橋氏を名乗り、のちに豊後国大友氏の一族である一萬田右馬助が家名を継ぎました。平安時代には三原弾正時勝が三原に館を築いて治めるようになりました。

下高橋官衙遺跡
政務などを行う郡庁や曹司院がある馬屋元遺跡と税の米を納めた正倉院がある上野遺跡からなります。
鎌倉時代、南北朝時代
建仁2年(1202年)に糸島郡高祖山城主の原田種直の子種朝が三原氏を継いで当主となり三原城を築城しました。三原氏は護良親王の命を受けて九州探題を攻めるなど南朝方として活動し、正平14年(1359年)に菊池武光と小弐頼尚が大保原で衝突した際には少弐方として参戦しました。
室町時代、安土桃山時代
三原種勝は永正3年(1506年)に西光寺を建立して菩提寺としました。天正14年(1586年)に島津軍が太宰府の岩屋城を攻めると、三原城主・三原紹心も参戦して討死し三原城も廃城となりました。
江戸時代
江戸時代の三井郡は、久留米藩に属しました。正徳2年(1712年)に高山六右衛門は草野又六らの指導のもと床島堰を完成させました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により久留米県より三潴県となり、明治9年(1876年)に福岡県に編入されました。

今村天主堂
16世紀後半のキリシタンたちは禁教時に隠れて信仰を続けましたが、大正2年(1913年)に今村天主堂が建設されました。