八女郡

八女郡は福岡県の南部にある広川谷と呼ばれる広川盆地をなす地域です。いちごやぶどう、梨、桃などのフルーツ、ガーベラやキクなどの花、八女茶など多くの農作物が生産されています。久留米市のベッドタウンとして栄えてきました。
概要
- 面積
- 37.94km2
- 人口
- 19,793人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 広川町
- 地図
歴史
旧石器時代から人が生活していた地域で、古墳時代に大型の前方後円墳が造営され、律令体制が成立すると官衙が置かれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
広川赤坂遺跡で旧石器が出土しています。久泉遺跡からは縄文時代晩期の竪穴住居跡が見つかり、広川高長遺跡から縄文時代晩期の埋甕が出土しました。一條森園遺跡から弥生時代前期から後期の188基の墓や竪穴住居跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
森園遺跡、北の前遺跡、割子田遺跡などから古墳時代の集落跡が発見されています。

八女古墳群(石人山古墳)
5世紀前半の前方後円墳で、九州最古の石棺系の装飾古墳です。武装石人が守る古墳には家形をした石棺があります。

八女古墳群(善蔵塚古墳)
6世紀中頃から後半の前方後円墳で、大和王権に抵抗した筑紫君磐井の墓と言われる岩戸山古墳の次世代の首長墓と位置付けられています。

八女古墳群(弘化谷古墳)
6世紀中葉の大型円墳で、彩色が施された八女古墳群最古の壁画系装飾古墳です。
奈良時代、平安時代
長延川の河岸段丘にある正恵・大坪遺跡から掘立柱建物群19棟と竪穴式住居9棟が見つかり、上妻郡衙が置かれていました。承平元年(931年)に空也上人が訪れて謹刻した阿弥陀蔵を安置して救世堂を広隆寺に改めました。
鎌倉時代、南北朝時代
特に記録は見つけられませんでした。
室町時代、安土桃山時代
天正13年(1585年)に肥前龍造寺氏の横岳頼次が攻め寄せ、蒲池鑑広の家臣で知徳城主の一條和泉守が大野原で敗死しました。この戦いの犠牲者は十三塚に弔われました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで田中吉政の治世が始まりました。田中吉政の家老辻勘兵衛は黒木氏の菩提寺である善応寺を再興しました。田中氏が改易されると元和6年(1620年)から久留米藩を立藩した有馬氏の所領となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により久留米県より三潴県となり、明治9年(1876年)に福岡県に編入されました。