京都郡

京都郡は福岡県の北東部のみやこ町と苅田町で構成され、豊前市と築上郡を合わせて京築とも呼ばれています。苅田町の西は平尾台のカルスト地形が広がり、東は周防灘に面して臨海工業地帯を形成し、みやこ町は山間部と農地が多い長閑で歴史深いのが特徴です。
概要
- 面積
- 200.32km2
- 人口
- 56,054人(2022年3月1日)
- 含む町村
- 苅田町、みやこ町
- 地図
歴史
景行天皇が仮の御殿を建てて滞在したことに由来する京都郡は、律令体制が整うと豊前国府や豊前国分寺が置かれて北部九州の政治的な拠点となりました。幕末には長州藩から攻められた小倉藩が仮の藩庁を建て、明治時代に豊津県の県庁が置かれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
青龍窟から東洋象やナウマンゾウの化石が発見され、富久遺跡や新津原山遺跡から遺物が出土しています。縄文時代早期には山口遺跡から土器が出土し、後期の節丸西遺跡から集落跡が見つかりました。弥生時代では黒田エノヲ遺跡などで大規模な集落跡がつくられ、国作八反田遺跡から木工製品が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
大陸の玄関口でもあり、畿内への玄関口となる地勢のため、大小さまざまな古墳が多く、綾塚古墳、橘塚古墳、甲塚方墳の三大石室古墳のほか6世紀中頃には県下最大級の庄屋塚古墳などが造営されました。

石塚山古墳
古墳時代前期の九州最大・最古級の前方後円墳で、竪穴式石室から邪馬台国伝説にまつわる三角縁神獣鏡や土器などが出土しています。

御所山古墳
古墳時代中期に造られた前方後円墳で、中国大陸や朝鮮半島との交流を読み取ることができる馬具などが出土しています。

番塚古墳
古墳時代中期以降に造られた前方後円墳で、石室から蛙形飾金具や大刀、銅鏡、装身具などが出土しました。

扇八幡古墳
6世紀前半の前方後円墳で、墳丘がほぼ完全な形が残されており、墳丘は二段築成で周濠があります。

綾塚古墳
6世紀後半から7世紀初頭の横穴式石室古墳で、江戸時代から信仰の対象とされて石室内には祭壇、石室の入口には鳥居が立てられています。

橘塚古墳
6世紀終わり頃の方墳で、綾塚古墳と石室の構造がよく似ている豊前地方を代表する古墳です。
奈良時代、平安時代
疫病(天然痘)の流行や作物の不作が続き、天平12年(740年)に中央政府に不満をもつ藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしました。国家鎮護のため、聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立しました。このほか、豪族が建てたと考えられる上坂廃寺や木山廃寺、菩提廃寺があり、蔵持山は英彦山六峰の一つに数えられる豊前地方屈指の霊山となりました。

豊前国府跡
豊前国に設置された国の役所跡で九州北東部の政治的な中心地でした。現在は史跡公園として整備されています。

豊前国分寺跡
天平勝宝8年(756年)に完成したと考えられ、平安時代に天台宗の勢力に入りました。戦国時代に大友氏の戦火で焼失したと考えられています。

菩提廃寺の塔の礎石
平安時代初頭の創建と推定される寺院の塔の礎石で、中央の塔心礎は九州で唯一の出ほぞ式という形をしています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府が成立してからも、荘園の多くは宇佐宮と弥勒寺がほとんどを占めました。少弐氏の根本被官である饗庭氏が肥後国・筑前国・豊前国の守護代を勤めて苅田荘に入りました。
室町時代、安土桃山時代
周防の大内氏が九州に進出して豊前国の守護も兼ね、松山城の城代として杉氏が入りました。豊後国の覇権を巡り大内氏と大友氏が争うようになり、応永5年(1398年)頃の神田潟の合戦で大内氏が大友氏を破りました。大内氏が毛利氏に滅ぼされると、大友氏が支配するようになり、慶長2年(1597年)から苅田山笠が始められました。

豊前松山城
天平12年(740年)に藤原広嗣が築城したと伝えられ、周防の大内氏や毛利氏と豊後の大友氏で激しい攻防戦が繰り広げられました。
江戸時代
享保17年(1732年)に始まる享保の大飢饉で多数の餓死者が出ました。慶応2年(1866年)に長州藩が小倉藩に攻め込み小倉城が焼失すると、小倉から退いた小倉藩が明治元年(1869年)に仮の藩庁を置きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に豊津藩が発足し、明治4年(1871年)の廃藩置県で豊津県の県庁が置かれたあと、小倉県から福岡県に編入されました。明治9年(1876年)に秋月の乱で戦場となりました。大正15年(1926年)に祓郷村にトラピスト修道院が設立して、長崎・五島から入植した人びとが果樹栽培を生業としてフルーツ生産が盛んになりました。