築上郡

築上郡は福岡県最東端に位置し、北部は山間部で南部は周防灘に面します。瀬戸内海型の比較的温暖な地域で自然豊かな地域です。
概要
- 面積
- 187.77km2
- 人口
- 30,416人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 吉富町、上毛町、築上町
- 地図
歴史
豊前国にあたる地域のため、中津市と深い関わりががあります。宇佐宮を中心とした宇佐八幡文化が花開き、豊臣秀吉の九州平定で黒田氏に与えられてから中津藩の支配下となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
山国川流域の沖積平野からナイフ形石器や剥片尖頭器などの旧石器が出土しています。縄文時代の矢頭田遺跡や幸子遺跡から土器片が採集されています。弥生時代の大塚本遺跡は方形墳丘墓が残り、皇后石は巨石信仰のひとつで海の神を祀る祭祀跡と言われます。
古墳時代、飛鳥時代
山国川と佐井川流域に4世紀の能満寺古墳群や西方古墳から始まり、5世紀中頃の楡生山古墳、6世紀の天仲寺古墳などのほか、5~6世紀に高句麗の影響を受けた横穴墓や群集墓が造営されています。継体天皇21年(527年)に筑紫国造の磐井が反乱を起こすと、戦いに敗れた磐井が上毛の地に落ち延びた伝承もあります。

能満寺古墳群
4世紀前半頃の山国川流域最古の4基からなる古墳群です。小規模ながら前方後円墳があり、鏡などが出土して畿内の影響を強く受けています。

西方古墳
4世紀の竪穴式石室をもつ前方後円墳で、山国川下流域の首長集団の墳墓とみられています。

山田古墳
古墳時代後期の山田古墳群の中で最大規模の円墳です。単室の横穴式石室の左壁には線刻画が確認されています。

穴ヶ葉山古墳
7世紀はじめの三国側流域屈指の巨大円墳で、馬蹄型の周濠が巡らされ、石室内部には鳥や魚などが描かれています。

唐原山城跡
飛鳥時代に築城されたと考えられる包谷式の山城で、小規模な神籠石の列石や水門が発見されました。
奈良時代、平安時代
上毛荘などの荘園が成立すると、宇佐神宮の隆盛に伴い宇佐宮の役人である田部氏が勢力を広げて宇佐宮領に取り込まれていきました。

大ノ瀬官衙遺跡
奈良時代から平安時代初頭の官衙遺跡で、古代豊前国上毛郡の郡衙跡と考えられています。

船迫窯跡
6世紀後半の須恵器を焼いた窯跡や7世紀中頃の九州最古級の瓦を焼いた窯跡で、奈良時代には豊前国分寺の瓦をつくる巨大工房も置かれました。

友枝瓦窯跡
奈良時代に造営された登り窯で、新羅系瓦や百済系瓦が窯で焼かれて7世紀末に創建した垂水廃寺に供給されました。

綱敷天満宮
左遷された菅原道真が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇してたどり着いて漁師の網を敷いて休息したことから名付けられました。
鎌倉時代、南北朝時代
源頼朝の命により宇都宮氏が下向し、城井谷を中心に支配したため城井氏と呼ばれました。嘉暦3年(1328年)に宇佐宮領の役人である田部忠通が広津氏を称するようになり、広津氏は大内氏から大友氏の家臣となり、室町時代末期に黒田氏が入ると広津の地を離れました。
室町時代、安土桃山時代
天正15年(1587年)に豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前国は黒田孝高に与えられました。肥後国で大規模な国人一揆が起こり黒田孝高が出兵すると、豊前国で宇都宮鎮房が反旗を翻しました。黒田孝高は宇都宮鎮房に領土保全の条件として黒田長政と千代姫と婚儀を持ち掛け、宇都宮鎮房を中津城で誅殺して千代姫をはじめとする宇都宮一族13人を処刑しました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの功績で細川忠興と忠利が領主となり、寛永9年(1632年)に細川氏の移封に伴い小笠原長次が領主となりました。小笠原氏の浪費で藩財政は圧迫し、延宝6年(1678年)に岩波源三郎を登用して岩波新法と呼ばれる藩政改革を行いましたが、藩財政は悪化の一途をたどりました。元禄4年(1691年)では干ばつによる大凶作で多くの餓死者が出て双子池が築造されましたが、失政の咎により小笠原氏は改易され、享保2年(1717年)に奥平昌成が入りました。宝暦2年(1752年)から梅田伝次左衛門を中心とした宝暦の改革が行われましたが失敗に終わりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治29年(1896年)に築城郡と上毛郡が合併して築上郡が誕生しました。

旧藏内氏庭園
筑豊地域で炭鉱を経営した蔵内次郎が建てた邸宅で、明治時代後期に主屋と応接間棟、庭園が造営されました。