佐賀市
佐賀市は佐賀県のほぼ中央部に位置する県庁所在地です。北の脊振山地から南の有明湾に沖積平野が広がり豊穣な自然を有しています。潮の満ち引きが大きな有明海は豊饒の海と言われ、東よか干潟は渡り鳥のシギ・チドリ類飛来数日本一を誇ります。
概要
- 面積
- 431.84km2
- 人口
- 231,739人(2022年2月1日)
- 市の木
- イチョウ
- 市の花
- サクラ
- 地図
歴史
佐賀市は旧石器時代から人の営みがあり、脊振山系南麓に多くの遺跡が残されました。縄文海進が収まると人びとは平地に移り水田が造営されました。律令国家が成立すると肥前国府が置かれ、やがて太宰府天満宮領となりました。戦国期は龍造寺氏が台頭しましたが、鍋島氏が支配するようになり佐賀藩の藩主となりました。出島に近い佐賀はいち早く近代化に取り組み、明治維新の立役者の一つとなりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
佐賀市北部の脊振山系南麓には遺跡の宝庫として知られます。旧石器時代の尖頭器・ナイフ形石器・細石器などが出土しています。弥生時代になると平野部に集落と水田が設けられ、平野部の遺跡が飛躍的に増加しました。
東名遺跡
縄文時代早期の遺跡で、集石炉や埋葬跡を主体とする集落跡と貯蔵穴を伴う西日本最大級の貝塚が発見されています。
徐福サイクルロード
中国秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わした伝説が残り、JR佐賀線跡には徐福の名が残されています。
古墳時代、飛鳥時代
平野部に集落が営まれましたが、古墳は背振山系の南麓に造営されました。天智2年(663年)に朝鮮半島で起きた白村江の戦いで大敗を喫した日本は、中国唐と新羅の報復と侵攻を恐れて帯隈山神籠石を築きました。
銚子塚
4世紀の佐賀平野で最古式の地域首長墓と考えられています。
西隈古墳
5世紀に建造された古墳で横口式装飾家形石棺が発見されました。
船塚古墳
5世紀中期に造営されたと言われ、墳丘の構造や周濠・陪塚の存在など豪壮な規模を有する前方後円墳として注目されています。
関行丸古墳
6世紀に建造された初期横穴式石室を持つ前方後円墳です。
小隈山古墳
蜜柑園造成により改変を受けていますが6世紀に建造された佐賀平野西部で最も大きな前方後円墳で、この跡の6世紀後半からは群集墳が造営されていきます。
帯隈山神籠石
朝鮮式山城と考えられており、外郭の総延長は2.4キロに及び花崗岩の切石列石とその外側の木柵、内側の土塁で構成されていました。
奈良時代、平安時代
肥前国を統括する役所である肥前国庁は大和町久池井付近に造営されました。周囲には国分寺跡、国分尼寺跡などが造営され、大宰府と肥前国府を結ぶ街道は長崎街道の起源となりました。
肥前国庁跡
天平勝宝2年(750年)には吉備真備が肥前守国司となり、天平宝字8年(764年)には佐伯今毛人が着任しています。
大願寺廃寺跡
肥前国分寺と同等の規模で寺浦廃寺跡や基肄城跡と同じ萢で造られた瓦が発掘されており、国分寺跡や国府跡との関係が注目されています。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代の後半に律令制度が崩壊すると多くの荘園ができました。河副荘は鳥羽天皇の勅願になる最勝寺領として有明海沿岸の一帯に広がる広大な荘園となり、その他は太宰府天満宮領となりました。やがて治安の乱れから武士団が形成され、高木氏が地頭職として台頭しました。その他、窪田氏、長瀬氏、岸河氏、大財氏、蛎久氏、嘉瀬氏が形成していきました。小津東郷の龍造寺村の小地頭の南二郎季家は、龍造寺を名乗り成長発展していくことになります。
室町時代、安土桃山時代
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が倒れると、神代・江上・小田・高木・国分・龍造寺・千葉・綾部などの諸氏が少弐貞経に従い鎮西探題討伐の兵を挙げました。これ以来、龍造寺氏は少弐氏を支えるようになりました。龍造寺康家は水ヶ江に居館を置き、その子胤家は大財端城を居城としますが、龍造寺家兼が水ヶ江に築城して村中城としました。
肥前の熊・龍造寺隆信
大内義隆が少弐資元を討つために肥前地方に進出すると、龍造寺家兼らはこれに対抗しました。家兼の跡を継いだ龍造寺隆信は、元亀元年(1570年)に佐賀を包囲した大友勢を鍋島直茂の夜襲攻撃で名高い今山の戦いで破り勢力を盛り返して肥前地方を掌握し、天正6年(1578年)には島原の有馬氏をも帰属させました。龍造寺隆信は筑後や肥後にも進入し五州二島の太守と呼ばれますが、天正12年(1584年)に島原の沖田畷の戦いで戦死しました。
江戸時代
龍造寺隆信が討死すると隆信の子の龍造寺政家や孫の龍造寺高房が跡を継ぎ、隆信の従兄弟にあたる鍋島直茂が国政をみました。鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮出兵で軍役を負担するなど肥前での影響を強め、佐嘉の支配体制を掌握しました。鍋島直茂・勝茂親子は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与しましたが、閑室元佶の取り成しもあり所領を安堵され、鍋島勝茂が初代藩主として佐賀藩が成立しました。成富兵庫茂安は元和元年(1615年)から河川改修や溜池築造、井樋工事などを手がけ治水の神様と称されました。
近代化の先駆け
鎖国政策で唯一の外国との窓口である出島と繋がる長崎街道にある佐賀は、外国からの文化の影響を受ける地でした。8代藩主鍋島治茂は財政を立て直し、天明元年(1781年)に藩校弘道館を設立しました。外国船の来航が増えて脅威になると10代藩主鍋島直正は洋式砲術の研究を始め、安政2年(1855年)に江戸幕府が設けた長崎海軍伝習所で佐野常民ら多くの佐賀藩士が航海術や造船技術を学びました。
佐賀城跡
初代佐賀藩主である鍋島勝茂は慶長13年(1608年)に村中城の整備を始めて佐賀城と名付けて城下町を整備しました。
佐野常民誕生の地
藩校弘道館や緒方洪庵のもとで学び、長崎海軍伝習所では勝海舟らと新しい技術を習得しました。西南戦争では傷病兵を救済する博愛社を結成して日本赤十字社の創設者となりました。
三重津海軍所跡
佐賀藩は安政5年(1858年)に最先端の造船ドックを設立し、慶応元年(1865年)に日本初の蒸気船凌風丸を完成させました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治政府は韓国の扱いについて検討を進め、征韓論争で敗れた江藤新平は佐賀へ戻り北海道開拓の父と呼ばれた島義勇とともに明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こしました。江藤新平は佐賀県令が籠る佐賀城を攻撃しますが、やがて新政府軍が佐賀城を奪還して佐賀の乱は終息しました。
佐賀市の誕生と現在
明治16年(1883年)に佐賀県が成立して市制が施行される中で明治22年(1889年)に佐賀市が誕生しました。佐賀市には大きな軍需工場などはありませんでしたが、昭和20年(1945年)の佐賀空襲により50名が亡くなりました。
大隈重信旧宅
大隈重信は政党内閣を組織して総理大臣となり、東京専門学校(現早稲田大学)の創設者となりました。旧宅は大隈重信の生家で武家屋敷の面影を残しています。
旧古賀銀行
両替商・古賀善平が明治18年(1885年)に設立しました。現存する建物は明治39年(1906年)に新築されたものです。