鳥栖市

鳥栖市は佐賀県の東端に位置し、佐賀平野の北は脊振山地があり南は筑後川が流れます。九州全体を結ぶ内陸交通路の要衝として発展しています。
概要
- 面積
- 71.72km2
- 人口
- 74,215人(2022年2月1日)
- 市の木
- モチノキ
- 市の花
- ハナショウブ
- 市の鳥
- メジロ
- 地図
歴史
鳥屋が置かれたことが転化して鳥栖よ呼ばれるようになりました。古来から九州の交通の要衝として中国や朝鮮から文化が伝わり、田代売薬は日本四大売薬のひとつとなりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
安永田遺跡から銅鐸の鋳型が見つかり注目を集めました。

安永田遺跡
弥生時代中期から後期の竪穴式住居跡が見つかりました。鋳型の発見により九州でも銅鐸が作られていたことが明らかになりました。
古墳時代、飛鳥時代

赤坂古墳
3世紀後半の前方後円墳で、鳥栖地域最古で九州でも最も古い初現期古墳のひとつです。出土した古式土師器から畿内の影響を強く受けていました。

剣塚
6世紀前半頃の前方後円墳で横穴式石室から須恵器、桂甲などが出土していることから、筑紫国造磐井の乱に関係がある豪族のものと考えられています。

庚申堂塚
柚比遺跡群の南端部の丘陵にある6世紀中ごろの前方後円墳で、石室内の壁面はベンガラで赤く塗られていました。

田代太田古墳
古墳時代後期に築造された大型古墳です。彩色壁画系装飾古墳でベンガラ、炭化物、海緑石を使用して赤黒緑の紋様が描かれています。
奈良時代、平安時代
奈良時代に雑鳥を飼いならして朝廷に献上していた鳥屋郷から鳥栖と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
建久9年(1198年)に天台宗の寺院として本城山萬歳寺が創建し、室町時代の禅僧・以亨得謙が臨済宗の寺院として再建しました。
室町時代、安土桃山時代
天正14年(1586年)に薩摩の島津勢が2万の兵で勝尾城を攻め、筑紫春門と川上忠堅が一騎打ちで差し違える混戦となりましたが、筑紫広門は降伏しました。

勝尾城筑紫氏遺跡
鳥栖地方を本拠として筑前、筑後にかけて勢力を広げた筑紫氏の居館跡で、天正14年(1586年)の落城時の姿がそのまま残されています。
江戸時代
長崎と小倉を結ぶ長崎街道が整備され、轟木宿と田代宿が置かれました。轟川沿いには番所が置かれて旅人や荷物の取り締まりが行われました。
基肄養父領
鳥栖市の東半分と基山町は対馬藩が治める基肄養父領で、対馬藩の代官所が置かれました。対馬は朝鮮との交易があり朝鮮薬を製造・販売する産業が発達して、田代地区は越中富山、奈良大和、滋賀近江と並ぶ配置売薬が盛んな地域となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治22年(1889年)に博多から久留米に鉄道が敷設して鳥栖に停車駅が整備され、明治24年(1891年)に開業した長崎線の分岐駅として一大拠点となりました。昭和29年(1954年)に鳥栖市が発足しました。