歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

多久市

佐賀県多久市の西山地区棚田

多久市は佐賀県の中央部に位置し、四方を山に囲まれた盆地です。優良な水田地帯が広がり、山間地はみかんやびわ、桃などの果樹や畜産品など多様な特産品があります。

概要

面積
96.96km2
人口
18,041人(2022年2月1日)
市の木
カエデ
市の花
ウメ
地図

歴史

長崎街道が唐津往還から伊万里往還に分岐する交通の要衝でした。戦国時代末期に龍造寺長信が多久氏を名乗り江戸時代にかけて治めるようになり、多久聖廟の整備や石炭採掘が行われたほか、多くの陶器窯が開窯して肥前磁器陶器の源流となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

南にある鬼の鼻山は安山岩の産地で多久石器原産地遺跡群があり、長尾開拓遺跡などの大型尖頭器をはじめとする石器製作遺跡が存在しています。綿打遺跡と四下大丹遺跡からは縄文時代早期の押型文土器が出土しており、岡遺跡や西ノ原西遺跡は扇状地に立地する縄文時代後期の集落であると考えられています。牟田辺遺跡は弥生時代中期の多久盆地における拠点集落と考えられています。撰分遺跡からは竪穴住居跡、鴻ノ巣遺跡からは弥生鉄器、原田遺跡からは甕棺墓が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

6世紀から7世紀初頭にかけて、羽佐間四反田遺跡、久保田遺跡、摺ケ本遺跡、今出川A遺跡、撰分遺跡などがあります。

奈良時代、平安時代

松津国造の支配を受け小城郡の高来郷に属していたと考えられています。

鎌倉時代、南北朝時代

佐世保市域を本拠とした松浦党の一族である相神浦氏は治承3年(1179年)に北多久町に移り住み、のちに縁戚となる多久氏に仕えました。鎌倉時代には津久井宗直が地頭として下向し、梶峰城を構えて多久氏を名乗るようになりました。南北朝時代には多久氏は少弐氏に従いますが、大内氏に押されて衰退しました。

室町時代、安土桃山時代

龍造寺隆信は永禄2年(1559年)に小城郡を勢力下に収め、永禄5年(1562年)に多久氏を追放しました。元亀元年(1570年)に龍造寺隆信の弟である龍造寺長信が梶峰城に入城して多久氏を名乗るようになり、梶峰城の鬼門の位置に聖光寺を建立しました。

江戸時代

龍造寺氏の家臣である鍋島氏が佐賀藩を立藩すると、多久領は藩の家老として多久氏が治めました。唐津往還と伊万里往還が整備され、多久は伊万里往還の宿場町として多久御屋形がありました。元禄12年(1699年)に多久茂文は東原庠舎を建てて儒者の川浪自安を初代教授としました。寛永年間(1750年頃)から石炭が採掘されるようになり重要な産物となりました。

佐賀県多久市の多久聖廟

多久聖廟

多久4代領主・多久茂文が宝永5年(1708年)に孔子像を安置した聖廟で、足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)と並び日本三大孔子廟といわれます。

佐賀県多久市の大宝聖林碑

大宝聖林碑

佐賀藩の儒学者・武富一郎右門咸亮が佐賀城下の私邸に営んだ聖堂を記念して正徳3年(1713年)に建てた碑で、のちに現在地に移設されました。

佐賀県多久市の保四郎窯跡

保四郎窯跡

18世紀から幕末にかけて創業した窯で、唐人古場・高麗谷・大山古窯などの陶器窯を含めて多久古唐津系と称されています。

佐賀県多久市の肥前陶器窯跡

肥前陶器窯跡

有田焼や三川内焼と並ぶ磁器の窯業地として発展してきた波佐見焼の窯跡です。

明治時代、大正時代、昭和時代

江戸時代に始まる石炭採掘は一時閉山しますが、昭和47年(1972年)にはすべて閉山しました。昭和29年(1954年)に多久市が発足しました。