伊万里市

伊万里市は佐賀県西部に位置し、三方を八幡岳や青螺山、国見山に囲まれ伊万里湾に面します。伝統の伊万里焼のほか伊万里梨や伊万里牛など器と食の街で、国際貿易港である伊万里港を中心として半導体や造船、木材などの産業が発展しています。
概要
- 面積
- 255.25km2
- 人口
- 51,843人(2022年2月1日)
- 市の木
- マキ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
伊万里市は黒曜石の産地が点在することから、旧石器時代から人々の営みがありました。平安時代末期に水軍を主力とする松浦党が結成され勢力を伸ばし、その一族で特に有力な波多氏が治めました。豊臣秀吉が波多氏を改易して、江戸時代に入ると唐津藩や佐賀藩の支配下に置かれました。伊万里は港町として有田・波佐見・三川内など周辺地区の陶磁器の積出港として栄え、明治時代から昭和30年代までは石炭の積出港としての役割を担いました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
伊万里市には旧石器時代から人が住んでいたと考えられています。腰岳からは黒曜石が産出し、前山遺跡や開田遺跡のほか井野尾の水溜遣跡から石器が出土しています。腰岳の黒曜石は中国大陸からも出土しており、船を介して中国大陸とも交流がありました。

白蛇山岩陰遺跡
旧石器時代から縄文時代晩期まで岩陰を利用して人びとが暮らしていました。やがて放棄されましたが、その特異な景観は中世に修験道者の修行の場となりました。
古墳時代、飛鳥時代
有田川の左岸には、5世紀末から6世紀初めに夏崎古墳が造営され、6世紀中期から後期に小島古墳が造営されました。これらの古墳は伊万里湾岸に暮らし海上交易や漁労をしていた人びとの頭領が葬られたと考えられています。佐賀県内で島に築かれた前方後円墳は小島古墳と唐津市呼子町加部島の瓢塚古墳だけです。

小島古墳
6世紀中期から後期に造営された前方後円墳で、伊万里湾岸に暮らして海上交易や漁労をしていた人たちの頭領が葬られたと考えられています。
奈良時代、平安時代
延久元年(1069年)に源久が肥前国松浦郡宇野御厨の検校となり、松浦に下向すると松浦を称して松浦・彼杵・壱岐・鷹島・福島・山代・有田等の広大な土地を領有しました。源久の弟である源持は波多郷を分封され波多氏を名乗るようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代初期に松浦党伊万里家の祖となる峯上が伊万里城を築城しました。伊万里湾を見下ろす高台にあり、船舶の動向を監視する役割がありましたが、天正4年(1576年)に伊万里治は龍造寺隆信から攻められ落城しています。
室町時代、安土桃山時代
波多盛は実子がいないまま亡くなり、波多盛夫人が有馬義貞の三男を迎え波多親として家督を相続しようとしました。永禄7年(1564年)に波多盛夫人は敵対する家臣を毒殺したことで御家騒動となり、家臣団の対立も重なることで波多氏は衰退していきました。波多親は龍造寺隆信の傘下となり生き残りを図ります。天正12年(1584年)に龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れて討死すると島津氏に近づきますが、やがて豊臣秀吉の九州征伐の謁見や朝鮮出兵の遅参などで不興を買い改易されました。
江戸時代
波多氏が改易せれてからは、寺沢広高が唐津城を築城して唐津藩の初代藩主となりました。伊万里市は唐津藩が支配し、寺沢氏から大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と藩主が代わりました。元和2年(1616年)に有田町の泉山で磁石が発見されてから磁器の生産が盛んになり、伊万里は有田・波佐見・三川内などの周辺地区の陶磁器の積出港となりました。伊万里から出島を経由して欧州へと輸出された陶器は、古伊万里として世界に知られるようになりました。

茅ノ谷1号窯跡
16世紀末から17世紀初めに操業した窯で、朝鮮唐津、備前唐津の徳利などが焼かれました。

大川内鍋島窯跡
佐賀藩鍋島氏は延宝3年(1675年)に御用窯を大川内山に移して磁器の生産に力を入れ、往年に鍋島焼と呼ばれる高い磁器を生産しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により全国2島113藩が3府72県となりました。現在の佐賀県には、佐賀県、唐津県、小城県、蓮池県、鹿島県が置かれ、すぐに各県は統合されて伊万里県となり佐賀県庁が伊万里市に移されました。明治5年(1872年)になると伊万里県は配されて佐賀県となり、県庁が佐賀市に置かれました。
工業港・伊万里
大正時代以降は石炭の積出港として栄え、昭和29年(1954年)に 伊万里町・山代町・東山代村・黒川村・波多津村・南波多村・大川村・松浦村・二里村が合併して伊万里市となりました。昭和30年代のエネルギー改革により石炭から石油に代わり石炭産業は衰退しましたが、木造加工業や造船業などの工業港として発展していきました。