武雄市

武雄市は佐賀県の西部にあり、武雄盆地内を武雄川や高橋川などの小流が六角川に注ぎます。舟の形をした御船山、雌岩・雄岩の奇岩、樹齢3000年を越える 3 本の大楠など豊かな自然があり、歴史ある武雄温泉や朝鮮出兵で連れて来た陶工が始めた焼き物が有名です。
概要
- 面積
- 195.40km2
- 人口
- 47,416人(2022年2月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
鎌倉時代に下向した後藤氏が勢力を伸ばし、戦国時代に龍造寺氏から養子を迎えて龍造寺一門となりました。江戸時代に佐賀藩が立藩すると、後藤氏は武雄領主となり鍋島姓を称することが許されました。幕末には鍋島茂義が積極的に蘭学を導入して西洋式大砲や蒸気船の製造などに成功し、佐賀の七賢人と称されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
1万年前の打製石器が出土し、縄文時代の遺跡が202カ所、弥生時代の遺跡が101カ所確認されています。北方町芦原の椛島山遺跡から弥生時代後期の鏡や玉などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
佐賀県最大級の円墳である玉島古墳をはじめ、50以上の古墳が確認されています。7世紀後半には外敵の侵攻を防ぐため、おつぼ山神籠石が築城されました。8世紀には神功皇后も入浴したと伝えられる武雄温泉が存在していました。

矢ノ浦古墳
5世紀初頭から前半にかけて造営された前方後円墳で、杵島地域の古墳文化の先駆をなすものです。

玉島古墳
5世紀末頃の県下最大級の円墳で、竪穴式石室から横穴式石室に移行する時代の杵島山周辺で有力な首長の墓と考えられています。

潮見古墳
6世紀中頃の円墳で、主体部の横穴式石室から馬鐸・杏葉・雲珠・鏡板などの馬具や武器・武具・冠など豊富な副葬品が出土しました。

多蛇古古墳(1号墳)
須恵器がみられないことから遅くとも5世紀中頃に造営されたと考えられている前方後円墳です。

おつぼ山神籠石
大野城や基肄城などの古代山城とともに百済の大型の山城を参考に造られた7世紀後半の朝鮮式の山城です。
奈良時代、平安時代
特に大きな記録は見受けられませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代から塚崎庄の領主後藤氏や武雄神社神官などが中心となりました。後藤氏は勢力を伸ばして伊万里市の一部まで領域を広げました。
室町時代、安土桃山時代
享禄3年(1530年)に有馬氏が住吉城を攻めると、後藤氏は夜襲で有馬氏を退けました。大村純前の子が後藤氏の養子に入り後藤貴明となりますが、大村純前が有馬晴純の子に大村氏の家督を与えたことから、後藤氏と大村氏が争うようになりました。後藤氏は龍造寺氏に近づき、龍造寺隆信の三男家信を養子に迎えました。後藤家信は豊臣秀吉の朝鮮出兵で深海宗伝ら陶工を連れ帰り、陶磁器づくりを始めました。
江戸時代
鎖国で日本の唯一の海外貿易の拠点が長崎になると長崎街道は重要な役割を果たすことになり、長崎街道沿いに北方宿、塚崎宿が置かれました。武雄領主の後藤氏は佐賀藩鍋島家の家老となり、後藤茂綱が鍋島直茂の養娘を室に迎えたことで鍋島姓を名乗ることを許されました。鍋島茂義は積極的に蘭学を導入して西洋式大砲や蒸気船の製造などに成功し、佐賀藩に多大な影響を与えた功績から佐賀の七賢人と称されました。

肥前磁器窯跡(百間窯跡)
板ノ川内の尾根の西斜面に造営された階段状連房式の登窯で、17世紀前半に操業したと考えられています。

筒江窯跡
17世紀後半から明治15年(1882年)頃まで操業した大規模な階段状連房式登窯で、染付や青磁を主体とする磁器を焼いていました。

旧武雄邑主鍋島氏別邸庭園(御船山楽園)
武雄領主・鍋島茂義が弘化2年(1845年)に完成させた庭園で、15万坪を誇る壮大な池泉回遊式庭園です。
明治時代、大正時代、昭和時代
大正4年(1915年)に辰野金吾の設計で武雄温泉の天平式楼門が建てられました。昭和29年(1954年)に武雄市となりました。