鹿島市

鹿島市は佐賀県南西部に位置し、東は有明海が広がり西は多良岳山系が鎮座します。豊かな自然に恵まれることから、みかんや米の栽培、海苔養殖、酒造りなどが盛んです。江戸時代は鹿島鍋島藩の城下町として栄え、明治以降は佐賀県南西部地域における政治、経済、文化の中心地として発展してきました。
概要
- 面積
- 112.12km2
- 人口
- 27,539人(2021年11月1日)
- 市の木
- キンモクセイ
- 市の花
- サクラ
- 地図
歴史
阿蘇山大噴火の噴出物が堆積した有明海の干潟により自然環境が生まれました。江戸時代は佐賀藩支藩である鹿島藩の城下町となり、干潟が干拓されて宿場町や港町の骨格が形成されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
かつて北鹿島は海でしたが、鹿島川などの堆積物により陸化していきました。儀助平洞穴から縄文時代前期の条痕文や押型文などの土器が出土しています。弥生時代には鹿島川・中川・浜川や七浦海岸等の扇状地帯に遺物の分布が見られ、有明海で漁撈を営んでいたと考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
木滝台遺跡で漁撈活動が行われ、6世紀後半の龍王崎古墳群や7世紀の鬼塚古墳が造営されました。

鬼塚
7世紀の円墳で巨石を組み合わせて作られた大きな横穴式石室を持ちます。鹿島地域を支配していた首長クラスが埋葬されていました。
奈良時代、平安時代
律令制により藤津郡が置かれ京都の仁和寺の荘園となり、その一部には鹿嶋馬牧がありました。真言宗中興の祖であり新義真言宗の始祖とされる覚鑁が生まれ、京都仁和寺で真言宗の教えを学びました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に鎮西奉行・武藤資頼が筑前、豊前、肥前の守護を兼務しました。藤津郡は大村氏が代官として勢力を張り松岡城を構え、南北朝時代には蟻尾城を築いて小城を本拠とする千葉氏に備えました。
室町時代、安土桃山時代
大村家親は文明9年(1477年)に千葉氏から攻められて蟻尾城は落城し、有馬氏からも挟撃されて有馬氏が領有するようになりました。天正4年(1576年)に龍造寺隆信が有馬氏が守る松岡城、横造城が攻め落とされて龍造寺氏の支配下となりました。豊臣秀吉が九州征伐を行うと、肥前国の領有は龍造寺氏家臣の鍋島直茂が相続しました。
江戸時代
慶長12年(1607年)に鹿島を与えられた佐賀藩主鍋島勝茂の弟鍋島忠茂は、佐賀藩の支藩として鹿島藩を立藩して常広城を中心に統治を始めました。鹿島藩は経済力が乏しく洪水や暴風雨、高潮や旱魃で苦しめられたため、3代藩主鍋島直朝は治水と干拓事業に力を注ぎました。9代藩主鍋島直彝は文化4年(1827年)に鹿島城を築城して居城を移しました。
祐徳稲荷神社
鹿島藩主鍋島直朝の夫人花山院萬子が京都から輿入れする際、貞享4年(1687年)に京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神から分霊されて創建しました。宝永2年(1705年)に萬子が入定すると、萬子の諡である祐徳院殿瑞顔実麟大姉にちなみ、祐徳院と呼ばれるようになりました。

祐徳稲荷神社
京都の伏見稲荷大社、茨城の笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷と称され、豪華で鮮やかな外観から鎮西日光(九州の日光東照宮)と呼ばれています。

鹿島城跡
北鹿島の常広城から移転した城で、明治7年(1874年)の佐賀の乱で赤門と大手門を残して焼失しました。

肥前浜宿
旧多良海道にある浜庄津町は港町として商人や船乗りなど、浜金屋町は職人町として鍛冶屋・大工・左官などが居住する鹿島藩内最大の商工業の町でした。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和29年(1954年)に鹿島市が誕生し、昭和35年(1960年)から本格的なみかん園の造成が開始されました。昭和60年(1985年)から鹿島ガタリンピックが開催されている肥前鹿島干潟は、平成27年(2015年)にラムサール条約に登録されました。

肥前鹿島干潟
広大な干潟に生息しているカニやゴカイを狙いシギやチドリなどが渡来するため、平成27年(2015年)にラムサール条約に登録されました。