歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

嬉野市

佐賀県嬉野市の大茶樹

嬉野市は佐賀県南西部に位置し、唐泉山系に囲まれた嬉野盆地が形成しています。嬉野茶や肥前吉田焼などが有名で、日本三大美肌湯と称される西日本最大級の嬉野温泉があります。

概要

面積
126.41km2
人口
25,439人(2021年11月1日)
市の木
市の花
さくら、ふじ
地図

歴史

奈良時代にすでに湧き出ていた温泉から嬉野の地名となりました。大陸との窓口である長崎と街道で通じたことで古くから多くの文化が伝わり茶の栽培も伝わり盛んになりました。豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れて来た朝鮮陶工は肥前吉田焼を始めて特産となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代から弥生時代の石器が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

南志田地区などで多くの古墳が造営されました。神功皇后が三韓出兵の帰途に立ち寄り、川中に湧き出た温泉が負傷した兵士の傷を癒したのを喜び「あな、うれしの」と呼んだことが嬉野の地名となりました。

奈良時代、平安時代

和銅6年(713年)に編纂された肥前風土記に嬉野温泉が記されています。平安時代には高麗人たちが森下溜池に高麗瓦窯を造営したと伝えられます。元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、平維盛が久間地区に落ち延びた伝説が残されています。

鎌倉時代、南北朝時代

永仁6年(1298年)に藤津壮は京都仁和寺領とされ、弘安の役で軍功を挙げた大村家信が地頭となりました。

室町時代、安土桃山時代

永享12年(1440年)に中国大陸から移住した唐人が茶の栽培を始め、永正元年(1504年)に明から渡来した陶工・紅令民が南京釜を持ち込み、釜炒り茶の製法を伝授したと伝えられます。文明8年(1476年)に島原半島の有馬氏が勢力を広げて藤津大村氏は滅亡しましたが、天正4年(1576年)に龍造寺氏が有馬氏を破り、やがて龍造寺氏の家臣である鍋島氏が統治するようになりました。

佐賀県嬉野市の大茶樹

大茶樹

室町時代から茶の栽培が始められました。大茶樹は慶安年間(1648~52年)に嬉野茶の祖・吉村新兵衛が植えた一本と言われています。

江戸時代

佐賀藩主の鍋島直茂は、朝鮮陶工のひとりを嬉野町吉田地区に送り陶磁器を作らせました。イタリア宣教師カミロ・コスタンゾは(1621年)に不動山地区に潜伏して布教を行い、隠れキリシタンたちは迫害を受けました。寛永16年(1639年)に鍋島直澄を蓮池に封じて蓮池藩が立藩しました。長崎街道が整備されると塩田宿や嬉野宿が置かれ、嬉野宿は温泉がある珍しい宿場町として嬉野湯宿とも呼ばれました。寛政3年(1791年)に牛津宿が大火に見舞われると、嬉野宿の瑞光寺が本陣となりました。

佐賀県嬉野市の肥前磁器窯跡(不動山窯跡)

肥前磁器窯跡(不動山窯跡)

17世紀から陶器が焼かれた連房式の登り窯です。5基が確認されており、17世紀後半に芙蓉手の染付皿や青磁製品などが焼成されました。

佐賀県嬉野市の湯宿広場

湯宿広場

島根県の斐乃上温泉、栃木県の喜連川温泉と並びに日本三大美肌の湯と呼ばれます。文政9年(1826年)にシーボルトも訪れました。

明治時代、大正時代、昭和時代

平成18年(2006年)に嬉野町と塩田町が合併して嬉野市が誕生しました。