歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

神埼市

佐賀県神埼市の櫛田宮

神埼市は佐賀県東部に位置し、北は脊振山地が連なり南は筑後川が流れます。中心部を城原川が南北に貫流して肥沃な佐賀平野を形成し、低平な堆積平野にはクリークが多く見られます。江戸時代に小豆島から行脚してきた雲水が伊之助に伝授した神埼そうめんが特産です。

概要

面積
125.13km2
人口
30,567人(2022年2月1日)
市の木
もみじ
市の花
さくら
地図

歴史

弥生時代の大規模な環濠集落である吉野ケ里遺跡が発見されました。律令制が成立すると皇室領として神埼荘が置かれ、西海道の敷設など交通の要衝となりました。平安時代に中国宋の貿易船が来航すると、大陸と交易を行う拠点ともなりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の船塚遺跡などで石器をつくり狩猟生活を行い、縄文時代には城原一本松遺跡や七の坪遺跡などに集落が営まれました。縄文時代後期に稲作文化が大陸から伝わり平野部での農耕生活に移行し、ムラからクニへと発展していきました。

佐賀県神埼市の船塚遺跡

船塚遺跡

旧石器の主な材料となるサヌカイトと黒曜石の産地が近いため、旧石器時代の集落又は石器製作が造営されました。

佐賀県神埼市の高志神社遺跡

高志神社遺跡

古社である高志神社には弥生時代中期の集落跡と墓地跡が確認され、甕棺墓に埋葬された人物は戦死した地元の有力者と考えらています。

佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡

大規模な環濠集落で、中国の史書・魏志倭人伝に記されている邪馬台国時代のクニの機能が見受けられます。

古墳時代、飛鳥時代

馬郡・竹原地区に大規模な集落が営まれ、右原祇園町遺跡に豪族の居館が置かれ、朝日古墳や伊勢塚が造営されました。飛鳥時代に神崎郡が成立し、肥前国府と大宰府を結ぶ西海道が敷設されました。

佐賀県神埼市の伊勢塚

伊勢塚

6世紀後半の前方後円墳で墳丘及び横穴式石室は県内屈指の規模があり、壁画系装飾古墳として学術的に高い価値があります。

佐賀県神埼市の櫛田宮

櫛田宮

景光天皇が創建して神の幸を受ける平和な里ができたことから、神の幸が転じて神埼の地名となりました。

奈良時代、平安時代

承和3年(836年)に皇室領として神埼荘が成立し、承平元年(931年)に後院領となりました。長承2年(1133年)に中国宋の貿易船が神埼荘に来航して日宋貿易が始められると、神埼荘官の平忠盛は大宰府の干渉を受けずに貿易を行いました。平家が滅亡すると、鎮西奉行として少弐氏が支配しました。

鎌倉時代、南北朝時代

脊振山一帯は脊振千坊と称され、山岳仏教の修行を行う場所となりました。建暦元年(1211年)に伴兼資が櫛田宮執行別当となり、建長元年(1249年)に本居季能が櫛田宮宮司職となりました。承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、神埼荘は有力御家人に分配されて神埼荘は消滅しました。

室町時代、安土桃山時代

大内氏の侵攻を受けて、少弐氏は肥前国を拠点としました。少弐家臣の龍造寺家兼と馬場頼周が対立すると、少弐冬尚も龍造寺家兼と対立し、永禄2年(1559年)に家兼の曾孫・龍造寺隆信に攻められて少弐冬尚は勢福寺城で自害して少弐氏は滅亡しました。

佐賀県神埼市の姉川城跡

姉川城跡

正平15年(1360年)に菊池武安が築城し、菊池一族の姉川氏が城主となりました。龍造寺隆信の勢福寺城攻めで本陣が置かれました。

江戸時代

小倉から長崎を結ぶ長崎街道沿いに神埼宿や境原宿が置かれました。寛永12年(1635年)に小豆島から行脚してきた雲水が病にかかり、これを介抱した伊之助にそうめんの製法が伝えられ、神埼そうめんとして特産になりました。

佐賀県神埼市の伊東玄朴旧宅

伊東玄朴旧宅

伊東玄朴は長崎でシーボルトから蘭学・蘭医学を学び、嘉永2年(1849年)に我が国で初めて牛痘種法を成功させました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治41年には佐賀県で初めての水力発電所である広滝第一発電所が置かれました。平成18年(2006年)に神埼市が誕生しました。

佐賀県神埼市の九年庵(旧伊丹氏別邸)庭園

九年庵(旧伊丹氏別邸)庭園

佐賀市の大実業家である伊丹弥太郎が明治25年(1892年)から造営した庭園で、のちに所有した倉田氏から県が所有するようになりました。