神埼郡

神埼郡は佐賀県東部の脊振山地の南端部にあり、南部は田手川が潤す肥沃な穀倉地帯が広がります。現在は弥生時代の日本最大級の環濠集落がある吉野ケ里町のみで構成され、歴史文化を有する自然豊かな町です。
概要
- 面積
- 43.99km2
- 人口
- 16,371人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 吉野ヶ里町
- 地図
歴史
縄文時代の海面上昇が緩んでいくと、佐賀平野と有明海の干潟が広がるようになりました。人びとは稲作を中心とした生活を送るようになり、小さなムラは大きなクニへと発展しました。吉野ケ里遺跡はクニの中心的な集落となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代のナイフ形石器などのほか、縄文時代後期の土器片が出土しています。縄文海進が終わり陸地が広がると、大規模な環壕集落跡である吉野ヶ里遺跡のほか三津永田遺跡や二塚山遺跡などが形成されました。
吉野ケ里遺跡
弥生時代前期から後期にかけて、ムラからクニに発展した中心集落でした。環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に多くの人が住んだ弥生都市でしたが、古墳時代の始まりとともに消滅しました。

吉野ケ里遺跡
全長2キロ以上の壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕集落で、周囲に小さな集落がいくつもあり、それらを統括していました。

竪穴式住居と高床倉庫
弥生時代全時期の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3千基を超える甕棺墓、弥生時代中期の王墓と考えられる墳丘墓などが発掘されています。

物見櫓
魏志倭人伝に記されている楼観跡と推定される物見櫓跡が内壕の内側で発見されました。物見櫓は侵入者を監視する役目がありました。

文化の交流
墳丘墓から高度な技術を要する有柄銅剣やガラス製の管玉などが出土しており、中国大陸や朝鮮半島との交流がありました。

祭祀
クニの中核として、祖霊への豊饒祈願や田植えや稲刈りの日取りを決める祭祀儀礼が行われました。王は祭司の統括者としての役割も担いました。
古墳時代、飛鳥時代
和銅2年(709年)に元明天皇の勅命で堪誉上人が霊仙寺を開山しました。脊振山一帯は山岳仏教の聖地として信仰を集め、脊振千坊と称されるほどの隆盛を誇りました。
奈良時代、平安時代
奈良時代に辛上寺が創建したほか、肥前国府と大宰府を結ぶ西海道が敷設されました。建久2年(1191年)に栄西禅師が霊仙寺の石上坊跡で茶樹栽培を行い、日本茶樹栽培発祥の地となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
弘安元年(1278年)の元寇に際して後宇多天皇の勅願で東妙寺が創建され、元寇の勅願祈祷所として石塔院が建てられました。
室町時代、安土桃山時代
平安時代末期から支配していた少弐氏が龍造寺隆信に攻め滅ぼされて龍造寺氏が支配しました。豊臣秀吉の九州征伐により龍造寺家臣の鍋島直茂が所領を得ました。
江戸時代
小倉から長崎を結ぶ長崎街道が整備され田手宿が置かれました。慶長年間(1600年頃)に成富兵庫茂安が人工水路である蛤水道を整備しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和17年(1942年)に陸軍目達原飛行場が完成し、翌年に大刀洗陸軍飛行学校目達原分校が開設されました。