歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

三養基郡

佐賀県三養基郡の千栗八幡宮

三養基郡は佐賀県東部に位置し、北部に丘陵があり南部は筑後川が形成した沖積平野が広がります。古くから古代官道や長崎街道など主要道路が通る交通の要衝で、主要都市へのアクセスが良いです。

概要

面積
86.87km2
人口
52,287人(2022年2月1日)
含む町村
基山町、上峰町、みやき町
地図

歴史

弥生時代や古墳時代の遺跡が多く、南北朝期の山城が点在しています。江戸時代に中原宿が整備され、成富兵庫茂安の土木遺産が残されています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

千塔山遺跡などで旧石器時代の石器が出土しています。縄文時代には白坂遺跡などがあり、弥生時代には千塔山遺跡・金丸遺跡などの多くの大規模な集落跡や墓跡が造営されました。内水面および周辺縁海部では漁撈が行われ、本分貝塚が造られました。

佐賀県三養基郡の船石遺跡

船石遺跡

脊振山地から南に延びる丘陵先端に船石・鼻血石・亀石と呼ばれる巨石が残され、弥生時代の竪穴住居跡や墓と古墳が3基が確認されています。

佐賀県三養基郡の二塚山五本谷遺跡

二塚山五本谷遺跡

脊振山地から南に延びる丘陵上にあり、弥生時代の甕棺墓や土壙墓などのほか古墳時代の方形周溝墓や奈良時代の火葬墓があります。

佐賀県三養基郡の姫方遺跡

姫方遺跡

弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡で、雄塚、雌塚と呼ばれる円墳や方形周溝墓があります。

古墳時代、飛鳥時代

5世紀後半に米多地区は応神天皇の曾孫にあたる都紀女加が米多国造として治め、都紀女加の一族が前方後円墳7基と大小の円墳からなる目達原古墳群を造営しました。

佐賀県三養基郡の姫方前方後円墳

姫方前方後円墳

6世紀代の前方後円墳でしたが墳丘は削平され、主体部は南東方向に開く横穴式石室も現在は埋没しています。

佐賀県三養基郡の高柳大塚

高柳大塚

6世紀後半から末頃の前方後円墳で、前方部が短く副室を有する横穴式石室で巨石を用いた珍しい特徴の古墳です。

佐賀県三養基郡の基肄(椽)城跡

基肄(椽)城跡

天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで敗れた大和王権が大宰府を守るため、天智天皇4年(665年)に築城しました。

奈良時代、平安時代

太宰府領の小倉荘や宇佐宮領の奈良田荘が置かれました。神亀元年(724年)に養父郡司壬生春成が千栗八幡宮を創建して肥前国一之宮となりました。長徳2年(996年)には一条天皇の勅願で西乃宮八幡神社が創建しました。平安時代末期に源為朝が鎮西八郎と称して、鎮西山一帯を拠点として九州を平定しました。

佐賀県三養基郡の堤土塁跡

堤土塁跡

7~8世紀に造営された土塁で、農業用水を蓄える灌漑施設説、大宰府などの防衛施設説、古代の道路説があります。

鎌倉時代、南北朝時代

元久2年(1205年)に創建した綾部八幡神社で行われる旗上げ神事・旗下ろし神事は旗の巻き具合で風雨の襲来や農産物の豊凶を占い日本最古の天気予報といわれます。南北朝時代に少弐氏が西島城を拠点のひとつとしました。

室町時代、安土桃山時代

少弐氏、渋川氏、大内氏、大友氏らが奪い合う土地となりましたが、やがて鳥栖市の勝尾城を本拠とした筑紫氏が支配しました。豊臣秀吉が九州を制圧すると、天正15年(1587年)に小早川隆景の領地となり、文禄3年(1594年〉には豊臣秀吉の蔵入地となりました。

江戸時代

慶長4年(1599年)に対馬島主の宗氏の領地として対馬藩田代領となりました。長崎街道には中原宿や六田宿が置かれました。18世紀中ごろに田代売薬が発生し、越中富山・近江・大和とともに日本四大売薬と呼ばれました。

佐賀県三養基郡の千栗土居

千栗土居

寛永年間(1624~44年)に佐賀藩の成富兵庫茂安が筑後川の治水対策のため、12年の歳月をかけて築堤した堤防です。

明治時代、大正時代、昭和時代

田代領は明治4年(1871年)の廃藩置県に厳原県に所属しましたが、明治16年(1883年〉に佐賀県となりました。明治7年(1874年)の佐賀の乱では寒津川沿いで戦闘となりました。