西松浦郡
西松浦郡は有田町だけで構成されます。佐賀県の西部に位置し東西を黒髪連山と国見連山に囲まれています。7割を森林や山地が占め、有田川が貫流して伊万里湾に流れ込みます。有田町は日本で初めて磁器が焼かれ、磁器の発祥と言われます。
概要
- 面積
- 65.85km2
- 人口
- 18,682人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 有田町
- 地図
歴史
日本で初めて磁器が焼かれた西松浦郡は、石器として利用された黒曜石が産出地であり旧石器時代から人の営みがありました。平安時代末期に松浦党が台頭すると、その一族である有田氏が領有するようになりました。有田氏は断絶して宗家松浦氏が支配しますが、龍造寺氏から鍋島氏と渡り江戸時代を迎え、佐賀藩鍋島氏の下で磁器の街として繁栄することになります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
伊万里市と有田町にまたがる腰岳は良質な黒曜石の産地であり、西松浦郡は旧石器時代から人びとが生活しました。旧石器時代に洞窟を利用して生活した盗人岩陰遺跡のほか、縄文時代の伊古石遺跡、坂の下遺跡からはドングリなどの木の実を貯蔵した穴が発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
特に大きな記録は見受けられませんでした。
奈良時代、平安時代
平安時代末期になると松浦党の始祖と言われる源久が、延久元年(1069年)に宇野御厨荘の荘官となり梶谷城を築いて統治を始めました。源久の孫である源栄は有田地方を与えられ、建保6年(1218年)に唐船城を築いて有田氏を名乗り治世を行いました。有田地方は農業を主体とした生活が営まれてきました。
鎌倉時代、南北朝時代
3代領主有田重は子がなく宗家松浦氏から養子を取り、西松浦郡は宗家松浦氏が執政するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
宗家松浦氏が平戸松浦氏と争うようになり、さらに家督相続で宗家松浦氏の内乱が起こりました。やがて唐船城は龍造寺隆信に降伏して、西松浦郡は龍造寺氏の支配下となりました。龍造寺隆信が天正12年(1584年)に島原の沖田畷の戦いで戦死すると、やがて鍋島氏が台頭して鍋島氏が領有するようになります。佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島から陶工たちを連行しました。
江戸時代
鍋島直茂が朝鮮出兵で連れて来た陶工たちは九州最古の施釉陶磁器である唐津焼を生産するようになりました。陶器の製造は佐賀藩の一大事業となり、有田町の両端に口屋番所を設置して技術の漏洩や磁器の持ち出しを防止しました。有田で焼かれた磁器は、伊万里を介して出島から欧州へと輸出され、古伊万里として世界に知られるようになりました。
肥前磁器窯跡(泉山磁石場跡)
李参平は中国景徳鎮のような白い磁器を焼成したいと考えました。原料となる陶石を探し歩き、有田の泉山で良質の白磁石を発見しました。
肥前磁器窯跡(天狗谷窯跡)
鍋島直茂が朝鮮出兵で連れて来た李参平は有田の泉山で良質の白磁石を発見して、元和2年(1616年)に天狗谷窯を開窯しました。
肥前磁器窯跡(原明窯跡)
日本で最古となる染付を生産して1600~30年代に陶器が焼かれました。
肥前磁器窯跡(山辺田窯跡)
1600~50年代に陶器が焼かれて染付大皿の優品が生産されました。
小樽2号窯跡
文化8年(1811年)から幕末まで創業するようになりました。
柿右衛門窯跡
17世紀後半に 操業した連房式登り窯です。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により佐賀県、小城県、蓮池県、鹿島県、唐津県が置かれました。その2ヵ月後に佐賀県と厳原(旧対馬藩)を合併し伊万里県になり、残り4県も伊万里県に合併されます。しかし明治5年(1872年)には再び佐賀県に、明治9年(1876年)に三潴県を経て長崎県に統合され、明治16年(1883年)にようやく長崎県から分離独立して現在の佐賀県となりました。