歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

南蛮船の来航とその影響

長崎市の出島和蘭商館跡

長崎市は永禄10年(1567年)に長崎に訪れたポルトガル人がキリスト教を布教したのを皮切りに欧米人が訪れる地となりました。長崎は江戸時代の鎖国においても唯一の外国との窓口として機能し、欧米文化を受け入れ続け、開国を迎えると長崎港が開港して多くの異国人を迎え入れました。

南蛮船の来航

天文12年(1543年)に鹿児島県種子島にポルトガル人が漂着してから、東洋の島国ジパング(日本)にはキリスト教の布教のため南蛮船が来航するようになりました。ポルトガル人修道士ルイス・デ・アルメイダは、永禄10年(1567年)に領主の長崎甚左衛門からキリスト教の布教を認められると、永禄12年(1569年)に長崎甚左衛門はアルメイダに土地を与え、ビレラ神父が長崎で初めて教会堂を建てました。教会堂は諸聖人を意味するトードス・オス・サントスと名付けられ、慶長2年(1597年)にはセミナリヨ(中等学校)、コレジヨ(十年制大学)、金属活版印刷所が一時的に付設されました。

長崎市の長崎公園

長崎甚左衛門

キリスト教の布教を認め、ポルトガル人に土地を与えたことで多くのキリシタンが誕生することになります。

長崎市のトードス・オス・サントス

トードス・オス・サントス

セミナリヨ(中等学校)、コレジヨ(十年制大学)が置かれ、現在は春徳寺が建立されています。

ポルトガル人との貿易で天文19年(1550年)に平戸が開港すると、永禄5年(1562年)に横瀬浦(西彼杵郡西海町)、永禄8年(1565年)に福田浦(長崎市福田本町)、永禄10年(1567年)に口之津(南高来郡口之津町)が開港し、元亀2年(1571年)に長崎港の前身として深江浦と呼ばれる寒村が開港しました。こうして長崎には貿易のために多くの南蛮船が入港するようになりました。

伴天連追放令

日本で初めてキリシタン大名となる大村純忠は、天正8年(1580年)に長崎6町と茂木をイエズス会に寄進しました。大村純忠の甥である有馬晴信は有馬にセミナリヨを開校するとキリスト教布教の成果をローマ法王に伝えるため、セミナリヨの第一期生である伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年が天正10年(1582年)に天正遣欧使節として長崎港からローマに向けて出発しています。次第に広まりつつあるキリスト教に脅威を感じた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に伴天連追放令を命じてその翌年には教会に与えられた知行所を没収しました。さらに慶長元年(1597年)にはフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名を長崎の西坂で処刑しています。

南島原市の有馬セミナリヨ

有馬セミナリヨ

キリシタン大名の有馬氏が南島原市に設立したキリスト教の学校です。

長崎市の日本二十六聖人殉教地

日本二十六聖人殉教地

慶長元年(1597年)にフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名の26人が長崎の西坂で処刑されました。

鎖国体制と出島

元和2年(1616年)に中国船を除く外国船の貿易が平戸と長崎に限定されると、寛永11年(1634年)に出島の埋築が開始されました。出島はポルトガルとの貿易のために築かれましたが、寛永14年(1637年)にキリシタン農民一揆の島原の乱が起こりポルトガルとの関係が悪化すると、寛永16年(1639年)に平戸のオランダ商館が出島に移されて鎖国体制が完成しました。鎖国により海外交易は中国とオランダの2国のみとなりましたが、その後もポルトガル船が長崎に来港して来ました。寛永18年(1641年)に幕府は長崎港口の西泊と戸町に番所を設けて筑前藩に対して長崎港警備を命じ、寛永19年(1642年)には佐嘉藩に対しても筑前藩と隔年交代で長崎港の警備に当たることを命じています。

長崎市の出島和蘭商館跡

出島和蘭商館跡

寛永16年(1639年)に平戸のオランダ商館が出島に移されて鎖国体制が完成し、出島は鎖国時代に唯一の外国の窓口となりました。

長崎市の戸町番所跡

戸町番所跡

外国船の往来を監視するため設置され、寛永19年(1642年)から筑前藩と佐嘉藩が隔年で監視を行いました。

開国の圧力とフェートン号事件

享和3年(1803年)のアメリカ船の来航を皮切りにロシア使節レザノフ、イギリス鑑フェートンが長崎に来航しました。文化5年(1808年)にはイギリス船がオランダ船を装い長崎港に侵入して日本人オランダ商館員が捕縛されるフェートン号事件が起こりました。こうした外国船の来航に伴い長崎の警備が万全ではないことが露呈したため、文化5年(1808年)に女神台場、文化9年(1812年)に魚見岳台場が造営されました。さらに嘉永6年(1853年)には四郎ヶ島台場が造営され、長崎の防衛は強化されました。

長崎市の魚見岳台場

魚見岳台場

長崎湾が一望できる場所に砲台が築かれ、来航する外国船を打ち払う拠点としました。

長崎市の魚見岳台場

魚見岳台場

丘陵に造営された砲台は3段からなり、それぞれ石垣で補強されています。

シーボルトとシーボルト事件

文政6年(1823年)に出島和蘭商館医として渡来したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、博物学や民俗学に興味を覚え、長崎市鳴滝に塾を開いて西洋医学や学問を教える傍ら日本の文化や植生などの研究を行いました。文政9年(1826年)には、かつての商館医ケンペルとツュンベリーの功績を称えた記念碑を出島に建てました。日本に強い関心を抱いたシーボルトでしたが、文政11年(1828年)に国外に持ち出してはいけない地図などの禁制品を持ち出そうとしたため国外追放となりました。国外退去したシーボルトはこれまで収集した膨大な資料を本にまとめ、海外に日本を紹介しました。

長崎市のシーボルト宅跡

シーボルト宅跡

シーボルトは私塾を開いて西洋医学や学問を教える傍ら日本の文化や植生などの研究を行いました。

長崎市のケンペル、ツュンベリー記念碑

ケンペル、ツュンベリー記念碑

シーボルトが来日する前に活躍したケンペルとツュンベリーを称えるためにシーボルトが出島に建立しました。

日本の開国

度重なる外国船の来航により鎖国体制の維持が難しくなると、嘉永7年(1854年)に幕府はアメリカと日米和親条約を締結して箱館(函館)と下田を開港しました。これを皮切りにイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を締結しました。さらに幕府は安政5年(1858年)にアメリカと日米修好通商条約を締結して貿易を認め、翌年の安政6年(1859年)に長崎港が開かれました。これにより東山手や南山手には外国人居留地が造成されグラバー商会が設立されたほか、元治2年(1865年)には大浦天主堂が開設されました。

長崎市のグラバー邸

グラバー邸

坂本龍馬の亀山社中などと取引し、莫大な利益を得たイギリス人商人グラバーの邸宅として建造されました。

長崎市の大浦天主堂

大浦天主堂

安政6年(1859年)の長崎港開港で訪れた外国人居留者のため、元治2年(1865年)に設立された教会です。

ド・ロ神父の事業

明治元年(1868年)に来日したマルコ・マリー・ド・ロ神父は、明治12年(1879年)に主任司祭として外海地方に赴任しました。ド・ロ神父は地域住民の窮状を知り30年にわたり、外海地区の福祉活動・慈善事業に尽力しました。神父の活動は宗教、教育、印刷、医療、土木、建築、開墾など多岐に及び、明治16年(1883年)に授産場を整備して明治18年(1885年)には鰯網工場を建設しました。

長崎市の鰯網工場

鰯網工場

ド・ロ神父は田畑に恵まれず貧しい外海の人びとのために鰯網工場を設立するなど地域に貢献しました。

長崎市のド・ロ神父墓

ド・ロ神父墓

一度も祖国に帰ることもなく大正3年(1914年)に逝去し、外海の野道共同墓地に墓が建てられ葬られました。

ド・ロ神父の教会

外海の出津地区は聖母マリアの聖画像などを密かに拝み、日本語によるカトリックの教義書や暦なども伝承して信仰を継承してきた地でした。ド・ロ神父は明治15年(1882年)に自身が設計した出津教会堂を地元の人たちとともに設立しました。平戸藩のキリシタン弾圧で長崎に亡命した籠手田一族は、キリスト教の神を祭神とする神社で密かに信仰を継承してきました。この地にド・ロ神父は私財を投じて明治16年(1883年)に大野教会堂を設立しています。

長崎市の出津教会堂

出津教会堂

ド・ロ神父は密かにキリスト教を信じてきた外海の出津地区の人たちのために教会堂を設計しました。

長崎市の大野教会堂

大野教会堂

ド・ロ神父が私財を投じて建設した小さな教会で、ド・ロ神父が考案した漆喰モルタルで固められたド・ロ壁が特徴的です。