長崎市
長崎市は長崎県南西部にある長崎県の県都です。三方を五島灘、橘湾、大村湾に囲まれ、鎖国時代に唯一貿易や文化の窓口となりました。イギリス人商人グラバーが来訪して五代友厚らと小菅修船場を設立し、三菱が長崎製鉄所とともに買収して発展させたことで海運国日本を支える造船業を主として栄えました。昭和20年(1945年)には原子爆弾による惨禍を被りました。
概要
- 面積
- 405.86km2
- 人口
- 400,796人(2021年11月1日)
- 市の木
- ナンキンハゼ
- 市の花
- アジサイ
- 市章
- 五芒星
- 地図
特集
歴史
古代の長崎市は、海に囲まれている環境を活かして人びとは狩猟生活を送りました。大きく歴史が動くのは室町時代以降となり、欧米人が来崎してキリスト教などの文化を伝えました。江戸時代に鎖国となりますが、長崎は唯一の外国との窓口となりました。幕末以降は炭鉱の開発と造船業の発達により日本近代化に貢献しますが、太平洋戦争で原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受けました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
長崎市東南部では縄文時代から古墳時代にかけて狩猟生活を行いました。深堀貝塚からは狩猟や漁労生活を営んでいた痕跡として、縄文時代の土器や黒曜石で出来た石器や弥生時代の箱型石棺や甕棺などが多数出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代終末から古墳時代初期の高鉾島遺跡では小児骨と土器が出土しています。本県本土部の墳墓の在り方から見て有力集団が弥生的な共同墓地を営んでいました。橘湾に浮かぶ牧島には小さな横穴式石室の上に石を積み重ねた積石塚が約100基された曲崎古墳群があります。
長崎市街
海に面した山間にある町で、古くから人が狩猟や漁労生活を営んで生活していました。
曲崎古墳群
国内で数少ない小さな横穴式石室の上に石を積み重ねた積石塚が約100基発見され、ガラス小玉や碧玉製管玉をはじめ、土師器や須恵器が見つかりました。
奈良時代、平安時代
和銅2年(709年)に僧侶行基は、円通山観音禅寺を開基しました。長崎市最古の寺院と言われ、平安時代末期に作られた高さ2メートルを超える木像千手観音像が安置されています。
鎌倉時代、南北朝時代
治承4年(1180年)に平包守が役人として下向しました。鎌倉幕府が成立すると、その息子の平包貞が地頭に任命されました。平包貞の跡を継いだ弟の平兼信はこの地を福田と改め、福田平次を名乗りました。建長7年(1255年)には房総半島の伊南荘深堀の御家人である深堀五郎能仲が承久の乱の功績として地頭として下向して地名を深堀と改めました。
室町時代、安土桃山時代
永和年間(1375~79年)に大串小次郎俊長が神浦地区に城を築いて神浦氏を名乗りました。彼杵一帯に割拠していた大村氏が神浦氏を支配下に置くと、元亀2年(1571年)に深江浦と呼ばれる寒村を海外貿易の門戸として開港して貿易のために多くの南蛮船が入港しました。長崎甚左衛門は永禄12年(1569年)にルイス・デ・アルメイダに土地を与え、ビレラ神父が長崎で初めて教会堂を建てました。教会堂は諸聖人を意味するトードス・オス・サントスと名付けられ、慶長2年(1597年)にはセミナリヨ(中等学校)、コレジヨ(十年制大学)、金属活版印刷所が一時的に付設されました。
トードス・オス・サントス跡
永禄12年(1569年)に長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに土地を与え、ビレラ神父が長崎で初めて教会堂を建てました。
日本二十六聖人殉教地
伴天連追放令により慶長元年(1597年)にフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名の26人が長崎の西坂で処刑されました。
日本で初めてキリシタン大名となる大村純忠は、天正8年(1580年)に長崎6町と茂木をイエズス会に寄進し、天正10年(1582年)には長崎港から4人の少年をローマに派遣する天正遣欧使節が出発しました。しかし豊臣秀吉が天正15年(1587年)に伴天連追放令を命じると、その翌年には教会の知行所が没収されました。さらに慶長元年(1597年)にはフランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名の26人が長崎の西坂で処刑されました。
江戸時代
元和2年(1616年)に中国船を除く外国船の貿易が平戸と長崎に限定されると、寛永11年(1634年)に出島の埋築が開始されました。出島はポルトガルとの貿易のために築かれましたが、寛永14年(1637年)にキリシタン農民一揆の島原の乱が起こりポルトガルとの関係が悪化すると、寛永16年(1639年)に平戸のオランダ商館が出島に移されて鎖国体制が完成しました。鎖国により海外交易は中国とオランダの2国のみとなりましたが、その後もポルトガル船が長崎に来港して来ました。
長崎湾
元和2年(1616年)に中国船を除く外国船の貿易が平戸と長崎に限定され、寛永11年(1634年)に出島の埋築が開始されました。
出島和蘭商館跡
寛永16年(1639年)に平戸のオランダ商館が出島に移されて、出島が国内で唯一外国と交流する窓口となりました。
戸町番所跡4・5・6・7番石標柱
幕府は寛永18年(1641年)に長崎港口の西泊と戸町に番所を設けて筑前藩に長崎港警備を命じ、翌年から佐嘉藩と隔年交代で警備されました。
烽火山のかま跡
松平信綱は外国船襲来を伝達するため烽火山のかまを築き、明治時代までその役割を果たしました。
引き続き交易を続けた中国人たちは交易により豪商を生み、長崎市に寺院を建立しました。寛文7年(1667年)には中国の富商許登授が本堂と魚籃観音像を寄進し、領主である諫早茂照が一帯の山林を寺に寄進して名勝と呼ばれる地となりました。
滝の観音
万治3年(1660年)に黄檗木庵の弟子である鉄巌は、空海が瀧の崖に観音の梵字を書いた伝承が残る滝の観音に禅堂を建てました。
興福寺寺域
元和6年(1620年)に中国南京出身の真円が開基して媽姐堂や仏殿を建てました。我が国最初の唐寺で、日本黄檗宗の発祥の地となりました。
崇福寺の媽姐堂
寛永6年(1629年)には長崎で貿易を行う福建省出身の華僑が福州から超然を招聘して崇福寺を創建しました。
鉅鹿家魏之えん兄弟の墓
明朝が滅亡して長崎に来航した鉅鹿家魏之琰と魏琰禎は安南貿易で豪商となり、日本最古の中国様式の寺院である崇福寺の大檀那となりました。
寛文3年(1663年)に起きた長崎大火は66町のうち57町が全焼する大きな被害を受けました。廻船問屋の倉田次郎右衛門は私財を投じ、延宝元年(1673年)に長崎で初めて水道を整備しました。享和3年(1803年)のアメリカ船の来航を皮切りにロシア使節レザノフ、イギリス鑑フェートンが長崎に来航し、文化5年(1808年)にオランダ船を装うイギリス船が長崎港に侵入するフェートン号事件が起こりました。
現川焼陶窯跡
元禄4年(1691年)には諫早家被官田中刑部左衛門が二男甚内を伴い現川焼陶窯を開窯しました。
長崎台場跡
外国船の来航に備え文化5年(1808年)に女神台場、文化9年(1812年)に魚見岳台場、嘉永6年(1853年)に四郎ヶ島台場が造営されました。
ケンペル、ツュンベリー記念碑
出島和蘭商館医として渡来したシーボルトは、文政9年(1826年)に商館医ケンペルとツュンベリーの功績を称えて記念碑を建てました。
シーボルト宅跡
文政6年(1823年)に出島和蘭商館医として渡来したシーボルトは、文政11年(1828年)のシーボルト事件で国外追放となりました。
諸外国からの開国の圧力に負けた幕府は、嘉永7年(1854年)の日米和親条約の締結を皮切りにイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を締結しました。安政6年(1859年)に長崎港が開港して幕府が自由貿易を許可すると、大浦から出島にかけて外国人居留地が形成されました。安政6年(1859年)に長崎に来たイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーは、グラバー商会を設立して坂本龍馬が設立した亀山社中と取引を行い莫大な利益を得て、文久3年(1863年)にグラバー邸を完成しています。グラバーは薩摩藩士五代友厚や小松帯刀と小菅修船場を設立し、明治20年(1887年)に三菱が長崎製鉄所とともに買収して発展させたことで長崎が造船業の町となりました。
高島秋帆旧宅
外国船に対抗するため、天保12年(1841年)に武州徳丸原で洋式銃を訓練した西洋砲術家の高島秋帆の住まいでした。
花月
坂本龍馬や勝海舟などが社交場とした丸山遊郭の老舗引田屋の庭園は、花月として全国的に珍しい史跡料亭として残されています。
大浦天主堂
元治2年(1865年)には外国人居留者のために大浦天主堂が開設され。
小菅修船場跡
日本最初の蒸気機関を動力とした曳揚げ装置を整備したドックで、五代友厚、小松帯刀とグラバーが共同出資して明治元年(1868年)に完成しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治政府は近代化を推し進め、明治4年(1871年)~16年(1883年)にデンマークの大北電信会社が長崎~上海と長崎~ウラジオストクに長距離海底ケーブルを敷設して国際通信を始めました。元禄8年(1695年)に五平太が石炭を発見して宝永7年(1710年)に深堀氏により採掘を始めた高島炭鉱は、慶応4年(1868年)にグラバーが佐賀藩と合弁により開発を始めました。高島炭鉱は明治14年(1881年)に三菱に譲渡され三菱発祥の地の一つとされ、日本の近代化に大きく貢献しました。
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫
長距離海底ケーブルの中継所として約1世紀にわたり対外通信の使命を果たしました。
長崎金星観測碑・観測台
明治7年(1874年)にはフランス科学院長の天文学者ジャンサンが観測台を設けて太陽面を通過する金星の観測に成功しています。
高島北渓井坑跡
北渓井坑は蒸気機関を用いて石炭を採掘した日本最初の洋式竪坑となりました。
中ノ島炭坑跡
明治16年(1883年)から採掘を始めて翌17年(1884年)に三菱が経営を行いました。
明治12年(1879年)に主任司祭として外海地方に赴任したド・ロ神父は、地域住民の窮状を知り30年にわたり外海地区の福祉活動・慈善事業に尽力しました。神父の活動は宗教、教育、印刷、医療、土木、建築、開墾など多岐に及び、明治16年(1883年)に授産場を整備して明治18年(1885年)には鰯網工場を建設しました。長崎市外海の石積集落景観は伝統的な石壁ネリベイに加え、ド・ロ神父により赤土に石灰を混ぜて練積みしたド・ロ壁が導入されています。
ド・ロ神父遺跡
外海地方に赴任したド・ロ神父は地域住民の窮状を知り30年にわたり外海地区の福祉活動・慈善事業に尽力しました。
長崎市外海の石積集落景観
ド・ロ神父は信者たちと協力して出津教会堂を設立して司祭となりました。
昭和16年(1941年)に太平洋戦争に突入すると、戦況は悪化して昭和20年(1945年)に広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下されました。日本は無条件降伏を受け入れて復興を進めることになります。端島炭坑は昭和49年(1974年)まで稼働して戦後の日本の復興に貢献し、昭和27年(1952年)から松島炭鉱株式会社が池島で炭鉱開発に着手し、九州最後の炭鉱として平成13年(2001年)まで稼働しました。
平和祈念公園
昭和20年(1945年)に広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下されました。
端島炭坑跡
明治23年(1890年)に三菱が買収した炭鉱で、最盛期は3千人が住む日本一の人口密度を誇り、その形から軍艦島と呼ばれました。