長崎市の明治近代化史跡
日本が開国してグラバーが来崎すると、グラバー商会を設立して亀山社中に船舶や武器を販売して討幕へと動きました。グラバーは造船所の建造や炭鉱の開発などにも関わり、明治日本の近代化に貢献しました。炭鉱業はエネルギー革命で石油に代わり衰退しましたが、造船業は現在も変わらず長崎の主要産業であり続けています。
イギリス商人グラバー
イギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーは、江戸幕府が日米修好通商条約を締結した安政6年(1859年)に長崎に来てグラバー商会を設立しました。グラバー商会は経営規模は小さいながら茶や石炭、木綿、毛織物などを扱いました。やがて討幕の機運が高まると薩摩や長州と結び付きを強め、坂本龍馬が設立した亀山社中と取引を行い船舶や軍需品を大量に販売しました。グラバーは海外渡航が禁止されているなか、伊藤博文や井上馨らの長州藩士や五代友厚ら薩摩藩士のイギリス留学を援助しています。
グラバー
グラバー商会を設立して武器等を輸入したほか、修船施設の建設や洋式炭坑の開坑などで幕末から明治期に日本の近代化に大きく貢献しました。
グラバー邸
莫大な利益を得たグラバーは、文久3年(1863年)に日本最古の木造洋風建築物となるグラバー邸を完成しました。
グラバー園の商会住宅
グラバー商会に招かれたフレデリック・リンガーは、長崎で製茶と輸出を監督の業務を行いました。リンガーは明治元年(1868年)にグラバー商会を退職すると、イギリス人エドワード・ホームとホーム・リンガー商会を設立してグラバー商会の茶葉貿易を引き継ぎました。安政6年(1859年)に長崎に訪れたオルトは、翌年にオルト商会を設立して製茶業で財を成しました。明治元年(1868年)にオルトが離れると、オルト邸はメソジスト派の活水女学校の校舎やアメリカ国領事館として使われました。明治26年(1903年)からリンガー家が所有しますが、太平洋戦争により川南工業の所有となり、昭和45年(1970年)に長崎市が買収しました。
リンガー邸
グラバー商会から独立したリンガーは、エドワード・ホームとホーム・リンガー商会を設立してグラバー商会の茶葉貿易を引き継ぎました。
オルト邸
製茶業で財を成したオルトの邸宅は、のちにメソジスト派の活水女学校の校舎やアメリカ国領事館として使われました。
小菅修船場跡
日本は外国から蒸気船を購入しましたが、船舶を整備する場所が日本にはありませんでした。そこで薩摩藩士五代才助(のちの友厚)、小松帯刀とグラバーらが共同出資して長崎港の入口近くでグラバー邸など外国人居留地の麓に小菅修船場を建造しました。小菅修船場はイギリスから曳揚げ装置一式を取り寄せて明治元年(1868年)に完成し、翌年には明治新政府が買収し官営長崎製鉄所の付属施設となりました。明治20年(1887年)に三菱の所有となりますが、船舶の大型化に伴い大正9年(1920年)に閉鎖しました。戦争の機運が高まると昭和12年(1937年)に操業を再開して、ボート型の特攻兵器である震洋が製造されますが、商船が大型したことで昭和28年(1953年)に再び閉鎖となりました。
小菅修船場跡
船を引き揚げる巻揚機が格納されている曳揚機小屋は日本最古の煉瓦造りで、使用している薄い煉瓦はコンニャク煉瓦と呼ばれています。
小菅修船場跡
イギリスから曳揚げ装置一式を取り寄せて明治元年(1868年)に完成し、その形状からソロバンドックと呼ばれました。
日本近代化の原動力となる炭鉱の開発
元禄8年(1695年)に五平太が石炭を発見して宝永7年(1710年)に深堀氏により採掘を始めた高島炭鉱は、慶応4年(1868年)にグラバーが佐賀藩と合弁により開発を始めました。北渓井坑は蒸気機関を用いて石炭を採掘した日本最初の洋式竪坑となりました。高島炭鉱は明治14年(1881年)に三菱に譲渡され三菱発祥の地の一つとされています。三菱は明治17年(1884年)から中ノ島炭坑の採掘に着手しましたが、坑内の出水に悩まされたため、こちらはわずか9年で閉鎖されています。
高島北渓井坑跡
蒸気機関を用いて石炭を採掘した日本最初の洋式竪坑で、明治14年(1881年)に三菱に譲渡され三菱発祥の地の一つとされています。
中ノ島炭坑跡
明治16年(1883年)から採掘が始まり翌年に三菱が経営しましたが、坑内の出水が激しく明治26年(1893年)に廃坑となりました。
世界遺産に登録された三菱長崎造船所
安政4年(1857年)に江戸幕府はオランダ人ハルデスらを招いて長崎鎔鉄所の建設に着工し、文久元年(1861年)に長崎製鉄所として完成しました。やがて明治政府の所有物となりますが、明治17年(1884年)に郵便汽船三菱会社が事業を継承しています。明治時代後期になると急速に船舶が大型化したため、大型化する船舶に対応するため第三船渠が竣工するなど拡張されました。
旧木型場
長崎造船所で最も古い木骨の小屋組みで煉瓦造りの2階建で、プロペラや部品などの鋳物の木型を製作するために建造されました。
占勝閣
明治37年(1904年)に曾根達藏の設計で建てられ、長崎造船所長宅や重要な式典などが行われる迎賓館として使用されました。
ジャイアント・カンチレバークレーン
明治42年(1909年)にスコットランドから輸入されたもので、現在も稼働しているクレーンとして世界最古のものです。
第三船渠
明治38年(1905年)に完成し、昭和17年(1942年)には巨大戦艦大和の同型の戦艦武蔵が建造されました。
軍艦島(端島)
明治23年(1890年)に三菱が買収した端島炭坑は、昭和49年(1974年)まで稼働して戦後日本の復興に貢献しました。狭隘な島は段階的に埋め立てられ、高層住宅が密集する居住施設と炭鉱施設が共存する島となり、その形が軍艦土佐に似ていたことから軍艦島と呼ばれました。端島の鉱員の給料は高く、最盛期には5000人もの人たちが端島に住んで東京都の17倍を超える世界一の人口密度となり、各家庭では全国で1割程度しか普及していないテレビを当り前のように所有していました。
軍艦島(端島)
段階的に埋め立てられて居住施設と炭鉱施設が共存する島となり、島の形が軍艦土佐に似ていたことから軍艦島と呼ばれました。
軍艦島(端島)
日本で初めて海底水道が敷設され、娯楽施設として映画館やパチンコ店などのほか遊郭まで整備されました。
炭鉱の衰退
昭和27年(1952年)からは松島炭鉱株式会社が池島で炭鉱開発に着手しましたが、この頃からエネルギー革命で主要エネルギーの石炭が石油へ移り石炭の産出量の減少から衰退の一途をたどりました。昭和37年(1962年)には原油の輸入が自由化され、昭和48年(1973年)には1次エネルギーの8割を石油が占めるようになりました。こうして端島炭鉱は昭和49年(1974年)に閉山し、池島炭鉱は九州最後の炭鉱として平成13年(2001年)まで稼働しました。