長崎原爆遺跡
日本は、昭和16年(1941年)にマレー半島やハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けて太平洋戦争に突入しました。序盤はアジアを中心に戦線を拡大していきましたが、やがて戦況は悪化して本土各地が空襲され、沖縄本島はアメリカ軍が上陸して激戦となりました。敗戦が濃厚な昭和20年(1945年)には広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下され、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏しました。
原子爆弾の開発
昭和14年(1939年)にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、やがてナチス・ドイツが原子爆弾の開発を進めているとの情報が流れました。この情報を受けて、アメリカはマンハッタン計画を発足させて原子爆弾の研究を急ぎ、昭和20年(1945年)にニューメキシコ州の砂漠で世界で初めて原爆実験に成功しました。
アメリカは原子爆弾の開発のために多くの科学者や技術者を動員し、当時としては巨額の約20億ドルの費用をつぎ込みました。こうして開発された原子爆弾の威力を確かめるため、広島ではウラン、長崎ではプルトニウムと異なる放射性物質を使用した原子爆弾が投下されることになります。
原爆投下の目標となる長崎市
古くから貿易港として外国文化が入り発展してきた長崎市は、海上交通の発達に伴い造船所が造られました。長崎市の三菱造船所では戦艦大和と同型の武蔵が建造され、その他にも魚雷などを製造する兵器製造工場などが集まることから、長崎市は日本軍の重要都市でした。長崎市は原爆が投下されるまで5回の空襲を受けており、地形がすり鉢状であることから、原子爆弾の威力を確認するうえで長崎市が適当かどうかはアメリカでも賛否が分かれました。最終的には広島、小倉、新潟とともに長崎市も原爆投下の目標として選ばれました。
長崎港
兵器製造工場などが集まる日本軍の重要都市で、広島、小倉、新潟とともに長崎市も原爆投下の目標として選ばれました。
長崎に投下された原爆
昭和20年(1945年)にアメリカの爆撃機B29が投下した原子爆弾は、長崎市松山町の上空500メートルで炸裂しました。当初アメリカは福岡県北九州市にある小倉に原子爆弾を投下する予定でしたが、小倉上空の視界不良ため長崎へと投下目標が変更となりました。長崎に投下された原子爆弾は、秒速440メートルの爆風と3000度以上の熱線で町を焼き払い、一瞬で爆心地付近の建物はほぼ全て倒壊し全焼しました。爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされたことから70年は草木も生えないだろうと言われました。
長崎市街
原子爆弾は秒速440メートルの爆風と3000度以上の熱線で町を焼き払い、一瞬で爆心地付近の建物はほぼ全て倒壊し全焼しました。
原爆落下中心碑
爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされたことから70年は草木も生えないだろうと言われました。
長崎原爆遺跡
長崎市の地形がすり鉢状のため、長崎市の家屋の被害は全体の4割に留まりました。被害が集中したのは浦上川周辺で、長崎の象徴である浦上天主堂の鐘楼は30メートル吹き飛ばされました。長崎医科大学門柱は爆風により9センチ前にずれ、台座との間に最大16センチの隙間ができました。山王神社二の鳥居は爆風に対して横向きに建てられていたため、鳥居の爆心地から遠い右半分だけが倒壊せずに残りました。この形状から一本柱鳥居や片足鳥居と呼ばれており、参道には倒壊した左半分が保管されています。
長崎医科大学門柱
爆風で9センチ前にずれ、台座との間に最大16センチの隙間ができました。
山王神社二の鳥居
爆風に対して横向きに建てられていたため、鳥居の爆心地から遠い右半分だけが倒壊せずに残り、一本柱鳥居や片足鳥居と呼ばれます。
平和への祈り
太平洋戦争が終結して、原爆落下中心地の小高い丘には平和公園が整備されました。長崎県出身の彫刻家北村西望氏の手により、昭和30年(1955年)に平和への願いを込めた平和祈念像が完成しました。こうした平和への願いが届いているのか、長崎に原子爆弾が投下されたのを最後に現在まで原子爆弾は投下されていません。
平和祈念像
像の右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈るとの製作者の言葉が台座裏に刻まれています。
平和の泉
熱線で体内まで焼けただれて水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈り、昭和44年(1969年)に平和の泉が建造されました。