異民族の襲撃と元寇

13世紀に蒙古民族を統一して中国から西洋に至る広大なユーラシア大陸に大帝国を築いた元は、日本にも臣下になるよう国書を携えた使者が何度も送られました。鎌倉幕府執権・北条時宗はことごとく無視して要求を拒みました。元の皇帝クビライは高麗とともに日本への侵攻を行います。
異民族の襲撃(刀伊の入寇)
壱岐は元寇が起こる250年ほど前にも、夷狄などの異民族の襲撃に悩まされていました。平安時代中期に藤原道長による摂関政治が最盛期を迎えていたころ、寛仁3年(1019年)に刀伊と呼ばれる中国東北部に住む女真族の海賊集団が壱岐に侵攻しました。壱岐守である藤原理忠は異民族を迎え撃ちますが全員が討死し、国分寺の僧・常覚は16人の法師とともに戦うも、敵に耐え切れずに1人で脱出して大宰府に危機を報告しました。壱岐島の民家は焼かれ、住民は殺害されるか捕虜として連行されてしまい、35名の住人しか生き残りませんでした。
日本に目を向けたクビライ
チンギスハンが建国したモンゴル帝国は、13世紀にユーラシア大陸の大部分を支配下としました。チンギスハンの孫にあたるクビライは、国号を元と改めて日本へ国交を求めて国書を送るようになります。文永5年(1268年)に執権となる北条時宗は、南宋から招いていた大休正念の意見を取り入れて元からの国書を無視し続けました。
最初の元寇(文永の役)
文永11年(1274年)に高麗を出発した元と高麗の2万5千の兵と900隻の船団が対馬のあと壱岐に侵攻しました。元軍は浦海、馬場先、天ヶ原の海岸から上陸し、壱岐の守護代を務めていた平景隆が迎え撃ちました。平景隆は唐人原で元軍と激突しましたが、居城の樋詰城を取り囲まれて全滅しました。壱岐や対馬の住人は殺害や捕虜となり、捕虜は手に穴を開けられて船に吊るされたと言われます。

小茂田浜古戦場
元と高麗連合軍は佐須浦と呼ばれていた小茂田浜に上陸しました。対馬島主の宗資国は80騎で迎え撃ちましたが、多勢に無勢で激戦の末に全滅しました。

新城千人塚
勝本町北西部の浦海と天ヶ原の両海岸に上陸した元軍は、唐人原で守護代の平景隆と激戦となりました。平景隆らは全滅して壱岐は元軍に暴虐の限りを尽されたとされます。

平景隆の墓
現在の新城神社は守護代の平景隆が居城としていた樋詰城がありました。樋詰城で元軍に取り囲まれた平景隆は、姫御前を太宰府に派遣すると自害して果てたとされます。

姫御前塚
平景隆の娘は異民族の襲撃を太宰府に知らせるため従者とともに城を出ましたが、元軍の毒矢に射られて従者だけを太宰府に派遣して自身は自刃して果てました。
博多への侵攻
対馬と壱岐を侵略した元軍は、博多湾へと進軍しました。少弐景資は博多の海岸で元軍を迎え撃ち、肥後の御家人・竹崎季長が元軍と衝突しますが、元軍の集団戦法と毒矢やてつはうなどの異色の武器で翻弄されました。博多の町は元軍に占領されて焼き払われましたが、元軍は一夜のうちに博多湾から撤退しました。
元寇の再来(弘安の役)
日本から兵を引き上げたクビライは、引き続き国交を求める国書を日本に送りましたが、鎌倉幕府は使者を龍ノ口刑場で悉く処刑して博多に防塁を築いて元の侵攻に備えました。外交官が殺害されたことに激怒したクビライは、弘安4年(1281年)に再びに日本に侵攻することを決定しました。
第一次壱岐の戦い
弘安4年(1281年)の2度目の侵攻となる弘安の役では、4400隻で14万人あまりの元と新羅の連合軍が日本に侵攻しました。船匿城に居城を構えた壱岐守護代・少弐資時は若干19歳の青年でしたが、わずかな軍勢で高麗を主とする元軍と激戦を繰り広げて船匿城で全滅したと言われます。

少弐資時の墓
19歳の壱岐守護代・少弐資時は壱岐に上陸した元軍を迎え撃ちました。少弐資時らは船匿城で奮戦しましたが壮絶な最期を遂げて全滅したと伝えられています。

少貳の千人塚
元軍は島の人びとを見つけると容赦なく残虐行為を繰り返し、元軍が通過したあとは島の人びとの死体が横たわりました。生き延びた島の人たちが死体を集めて埋葬して塚を築きました。

千本供養塚
瀬戸浦古戦場跡から少し離れた山中にある弘安の役で殺された人々を弔う供養塚です。元寇では多くの島民が犠牲となりました。
第二次壱岐の戦い
壱岐島は元軍に侵略されて、元軍の日本侵攻の拠点となりました。元軍は壱岐から博多湾に侵攻しますが、鎌倉幕府御家人は防塁で敵の上陸を阻みつつ夜襲やゲリラ戦で激しく反撃しました。高麗の元軍は江東軍と合流するため壱岐に退いたため、鎮西奉行・少弐経資は壱岐奪還を目指して薩摩、筑前、肥前、肥後の御家人を率いて瀬戸浦に侵攻しました。

元寇防塁
元の来襲に備えて建治2年(1276年)に今津から香椎までの海岸線に築かれました。弘安4年(1281年)の再来襲では防塁に阻まれて侵攻できませんでした。

瀬戸浦古戦場
鎮西奉行・少弐経資は薩摩、筑前、肥前、肥後の御家人を率いて元軍と激しい戦いとなりました。合戦は主に港の内外を中心とする海戦で、瀬戸浦の両岸や周辺の陸地でも繰り広げられました。
神風と元軍の撃退
元の高麗軍は壱岐から肥前国鷹島へ移動し、江東軍と合流して上陸の準備のため仮泊しました。ここで神風と呼ばれる暴風雨に遭い、元軍の船がほとんどが沈没して壊滅状態となりました。鷹島に逃げ延びた元の残兵も悉く討ち取られました。

鷹島神崎遺跡
激しい暴風で元軍の船団の多くが沈没しました。沈没した地点からは壺類や刀剣、碇石などが引き上げられ、日本で初めて海底遺跡として指定されました。
壱岐に残る元寇に纏わる伝承
文永の役の主戦場・勝本町周辺や弘安の役の主戦場・芦辺町周辺には、元軍に追われた人びとが身を隠したといわれる隠れ穴が残されています。隠れ穴では子どもの泣き声で発見されて皆殺しにされたこともあり、泣き止まない子どもは肉親の手で殺されたとの記録もあります。壱岐では子供が悪いことをすると、ムクリコクリの鬼が来ると叱る風習がありました。ムクリとは蒙古兵、コクリとは高句麗兵を指すと言われています。戦後には日高三大が郷土玩具としてムクリコクリ人形を考案してこの伝承を伝えています。