南蛮船来航と島原・天草一揆

スペインやポルトガルが大航海時代を迎えると、日本にも南蛮船が訪れるようになりました。宣教師たちはキリスト教を伝え、島原半島の領主・有馬晴信は洗礼を受けて布教を許可たことで領民の多くがキリシタンとなりました。キリシタンたちは豊臣秀吉や江戸幕府の弾圧を受け、飢饉や領主の圧政に耐えかねて島原・天草一揆を起こしました。キリシタンと国人衆で構成された江戸時代最大の一揆は、幕府に大きな衝撃を与えて鎖国体制を急速に完成させることになります。
島原半島を領有する有馬氏
鎌倉時代に肥前国高来郡の地頭職となる藤原経澄は、日野江城を本拠として有馬氏を称しました。有馬貴純は島原半島から肥前国西部一帯まで勢力範囲を広げましたが、有馬晴信の頃になると肥前国北部の龍造寺氏が島原半島を侵攻するようになり衰退を始めました。

日野江城
肥前西部最大の戦国大名である有馬氏の居城跡です。南北朝時代に建てられたと考えられており、庭園や茶室も備えられていました。
島原半島のキリスト教の伝来
永禄5年(1562年)に日本に来航したイエズス会宣教師アルメイダは、翌年に島原半島の口之津を訪れて布教を始めました。領主の有馬晴信は洗礼を受けてジョアン・プロタジオとなり、天正9年(1581年)には修道士の教育機関であるセミナリヨが有馬に設立され、宣教師フロイス、巡察師ヴァリニャーノなども来航しました。
キリスト教の普及
島原半島は湿田が多く米の生産が乏しいため、有馬氏の財政は南蛮貿易が支えていました。有馬晴信は宣教師に軍事、経済の援助を求め、浦上領をイエズス会に寄進するほど熱を入れていたため、領民もそれに従うことで島原ではキリスト教徒が増加しました。

南蛮船来航の地
天正7年(1579年)にイエズス会巡察使ヴァリニャーノが口之津に来航して、有馬晴信は翌年洗礼を受けキリスト教の布教を許可しました。

有馬セミナリヨ
10代前半の少年が西洋音楽やラテン語などを学び、第1期生から日本最初のヨーロッパ使節団(天正遣欧使節)が選抜されてローマ教皇に謁見しました。
九州征伐と所領安堵
有馬晴信は龍造寺氏の侵攻に耐えられなくなると、島津義久に救援を要請して天正12年(1584年)に島津氏が沖田畷の戦いで龍造寺氏を破りました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州征伐を行うと、有馬晴信は島津氏と縁を切り豊臣方として参戦し、神代領を除く島原半島全体が安堵されました。
伴天連追放令と宣教師の保護
豊臣秀吉は天正16年(1588年)に伴天連追放令を発して長崎と浦上を蔵入地としました。伴天連追放令が発せられた理由は定かではありませんが、キリシタンが神社仏閣を破壊したことや宗教一揆に発展することを懸念したと言われます。有馬晴信はイエズス会の保護に努め、宣教師60名が島原に潜伏したと言われます。長崎代官の鍋島直茂や施薬院全宗は追放令の徹底化を豊臣秀吉に進言したため、宣教師たちは更なる保護を求めて、同じくキリシタン大名の小西行長の領地である天草に移りました。

吉利支丹墓碑
有馬氏の領内では多くのキリシタンが生まれ、日本で最古とされる蒲鉾型の墓碑である1610年に没したフィリ作右衛門ディオゴの墓碑が残されています。

有家町キリシタン史跡公園
キリシタン墓碑は多くが島原半島に残されており有家町には33基が散在していました。墓碑は領民にキリスト教が浸透していたことを物語ります。
日野江藩の成立
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、松浦氏、大村氏、五島氏らと共に西軍の立花宗茂領を攻め、この功績により本領を安堵されました。日野江藩の初代藩主となる有馬晴信は、慶長14年(1609年)に幕府の命を受けて、高山国(台湾)の内情視察と占城(ベトナム・チャンパ)での伽羅(香木)購入を行いました。占城の地理を知る久兵衛が案内して出航しましたが、天川(マカオ)で船員がポルトガル商館と争論となり水夫が殺害される事件が起きました。この事件を受けて徳川家康はポルトガル船の排除を命令し、有馬晴信は長崎に入港したポルトガル船デウス号を撃沈しました。
岡本大八事件
有馬晴信はデウス号事件の恩賞として、肥前国杵島、藤津、彼杵三郡の領地回復を求めていました。この願望を見抜いた老中本多正純の与力岡本大八は有馬晴信に接近し、偽の朱印状を提示して晴信から必要経費として金品を騙し取りました。慶長15年(1610年)には晴信の子直純が徳川家康の養女国姫を娶り旧領回復を期待しましたが、音沙汰が無いため晴信は本多正純に直談判しました。岡本大八は横領が発覚して捕らえられますが、有馬晴信が長崎奉行長谷川藤広を殺害する企てがあると訴えたことで有馬晴信は領地が没収され斬首刑に処されました。晴信亡き後、有馬直純が遺領を引き継ぎましたが、慶長19年(1614年)に日向国縣(延岡)に転封されました。
松倉氏による島原城築城
元和2年(1616年)に大阪の陣の功績で松倉重政が新たな領主となると、伝統的な領主である有馬氏の政治を一新するため島原城と城下町の整備を始めました。松倉重政はキリシタンに対して寛容でしたが、このことを3代将軍徳川家光から叱責されたことを受け、キリシタンに対して厳しい弾圧を行うようになりました。重政はキリスト教の根絶にはフィリピン・ルソンを攻撃してスペイン植民地を根絶すべきと幕府に進言してルソンに内偵を送りますが、寛永7年(1630年)に重政が没して計画は消滅しています。
板倉勝家の圧政
寛永8年(1631年)に板倉勝家が遺領を継ぎますが、このときは島原城と城下町の建設にルソン遠征計画による莫大な出費で財政が悪化していました。この事態を打開するため、勝家は領内の検地を実施して更に石高を洗い出し、高い税率で年貢を納めさせました。この他にもあらゆるものに税をかけ、寛永11年(1634年)から度重なる大飢饉もあり、農民たちは困窮に大変苦しみました。松倉勝家の悪政は領民に強い不満を抱かせ、異常な緊張状態を醸成していきました。

島原城
築城普請の名人と言われた松倉重政は2重に堀を巡らした巨大な城の築城を進め、石高に見合わない築城の経費は莫大なものとなりました。

島原城下町
城の麓には城下町が整備されました。

南有馬村
多くのキリシタンが住んでおり、庄屋次右衛門の弟角蔵と百姓三吉はキリシタンを布教した理由で代官に殺害されたことを受けて、農民が代官林兵右衛門を襲撃する事件が起こりました。

口之津町白浜のキリシタン墓碑
キリスト教布教の中心地として信者が多く住みました。口之津村の大百姓与三右衛門が未進米のため妻を水牢に入れられ殺害される事件も起きました。
原城と島原・天草一揆
不満が爆発した島原の農民は、家老田中宗甫を追いかけて島原城下町や寺社を焼き、武器や食糧庫を襲撃しました。天草でも島原のキリシタンが一揆を起こした知らせが届き、天草四郎時貞を中心として決起しました。一揆勢は長崎奉行と城の明け渡しを要求し、不成立の場合は攻撃することに決定しましたが、天草富岡城代の三宅藤兵衛が攻撃してきたため、天草勢はこちらと戦い、島原勢は原城に籠城することになりました。
一揆軍の籠城と奮戦
天草四郎時貞が原城に入城したときには、男女3万7千人が籠城していました。一揆勢は有馬氏の転封に従わずに島原に残った浪人武士がキリシタンや農民たちを引率しており、有馬氏統治時代の仕組みのうえに宗教が関わる国一揆の側面がありました。一揆勢は芦塚忠右衛門らが本丸で指揮し、鳩山出丸には山田右衛門作、二ノ丸には有馬掃部、三ノ丸には有江監物、大江口には大矢野三左衛門らが守備を固めました。幕府は板倉内膳正重昌と石谷十蔵貞清を上使として対応させますが、戦いは一進一退となり幕府は老中松平信綱に下向を命じました。これを聞いた板倉重昌は軍功を奪われると思い、寛永15年(1638年)に自ら総攻撃の先頭に立ちますが、壮絶な最期を遂げてしまいました。
兵糧攻めによる一揆鎮圧
幕府は平戸オランダ商館に原城の攻撃を依頼し、商館長クーケルバッケルはライブ号を派遣して海上から砲撃を行いました。幕府軍は兵糧攻めに切り替えると一揆勢は食糧難に陥り、海岸で海藻や貝類を拾う姿が見られるようになりました。老中松平信綱は一揆勢の食糧難を知ると総攻撃をかけ、熊本藩細川家臣の陣佐左衛門が天草四郎時貞を討ち原城は陥落しました。一揆が鎮圧されると松倉勝家は領地没収のうえ斬首刑となり、幕府はこの乱を契機に禁教を第一として鎖国体制を急速に完成させていきました。

天草四郎時貞
上天草の小西家の浪人・益田甚兵衛の子として生まれ、聡明で神の子と呼ばれたことから島原・天草一揆の総大将となりました。

板倉重昌碑
上使として細川、鍋島、立花ら九州諸大名を指揮しましたが原城を落とすことができず、戦功を急いで総攻撃しましますが一揆勢に討ち取られました。

原城跡
一国一城令で廃城としていましたが、一揆勢が籠城して徹底抗戦しました。3万以上の一揆勢が犠牲となり、一帯から多くの遺骨が出土しました。

原城跡
島原・天草一揆は幕府に大きな衝撃を与え、一揆が鎮圧されてから城は徹底的に破壊しました。幕府はこの乱を契機に禁教を第一として鎖国体制を急速に完成させていきました。