歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

南島原市

長崎県南島原市の原城跡

南島原市は、長崎県の南部で島原半島の南東部に位置します。日本最初の国立公園である雲仙天草国立公園と島原半島県立公園の一部にあたり、雲仙山麓から南へ広がる肥沃な大地が広がります。魚介類が豊富な有明海及び橘湾に面しており、口之津港は天然の良港で昔から開かれた港でした。戦国時代には南蛮船(ポルトガル船)が来港し、また明治時代には三井三池石炭の海外の積出し港として栄えました。

概要

面積
170.11km2
人口
41,115人(2022年2月1日)
市の木
アコウ
市の花
ひまわり
地図

特集

長崎県南島原市の原城跡

南蛮船来航と島原・天草一揆

島原や天草のキリシタンと国人衆たちはキリシタン弾圧と圧政に苦んで蜂起し、江戸時代最大の一揆を起こしました。幕府は大きな衝撃を受けて鎖国体制を急速に進めることになります。

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歴史

南島原市は、縄文時代から弥生時代に移行する頃から人の営みの痕跡がありますが、古墳はあまり造営されていません。律令時代に荘園ができて小領主が分立していましたが、有馬氏が台頭して大名となりました。室町時代後期にキリスト教が伝来して広まると、江戸時代にはキリシタンを主とする島原・天草一揆が起こりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

島原半島南東部には縄文時代から弥生時代に移行する頃に山ノ寺梶木遺跡や原山支石墓群が造られ、刻目突帯文を施す特徴的な土器が出土しています。有馬川流域には北金毘羅祀遺跡、今福遺跡、浦田遺跡など弥生時代の遺跡が多く残り、今福遺跡は弥生時代中期から後期の中心的な集落で環濠や石包丁が発見されています。

長崎県南島原市の南島原市

南島原市

日本最初の国立公園である雲仙天草国立公園と島原半島県立公園の一部にあたり、雲仙山麓から南へ広がる肥沃な大地が広がります。

長崎県南島原市の原山支石墓群

原山支石墓群

原山支石墓群は日本最古最大の支石墓群で、集落では稲作を行い布を織り生活していました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代の遺跡は島原半島の南部は少なく、天ヶ瀬古墳など古墳時代後期から末期の小規模な円墳が僅かに残るだけです。

奈良時代、平安時代

大和王権の影響力が全国各地に及ぶようになると、島原半島は肥前国高来郡としてその支配体制に組み込まれます。高来は天皇が島原半島に大野宿祢を使者として派遣したとき、出迎えた高来津座の名に由来します。やがて島原半島には高来有間荘を始めとする小荘園が成立します。

鎌倉時代、南北朝時代

島原半島には小さな領主が分立しており、一領主である有馬氏は寛元4年(1246年)に惣地頭の越中氏と争いました。南北朝時代になると、有馬氏をはじめとする多くの領主が南朝方となり菊池氏と関係を持ちますが、永徳元年(1381年)に九州探題今川了俊の侵攻を受けることになりました。今川了俊は大浦城や大垣城を攻めて有馬氏は降伏しています。

長崎県南島原市の円通寺門礎石

円通寺門礎石

有馬澄世は菊池一族を教化していた大智禅師を招いて正平8年(1353年)に円通寺を創建しました。のちに有馬氏がキリシタンになり円通寺は廃寺となりました。

長崎県南島原市の勤皇大智禅師大梅の塔

勤皇大智禅師大梅の塔

大智禅師は正平21年(1366年)にこの地で没して、その墓碑として勤皇大智禅師大梅の塔が建てられています。

室町時代、安土桃山時代

室町時代中期に8代当主有馬貴純は周辺領主の被官化を推し進め、島原半島の勢力基盤を確立しました。10代当主有馬晴純はその勢力をさらに拡大して、次男以降を大村家、千々石家、波多家、天草志岐家に養子に送り諸家への影響力を強めました。有馬晴純が隠居して有馬義貞が跡を継ぐと、一族の大村純忠が永禄5年(1564年)にポルトガル船を受け入れてキリスト教に改宗しました。これを契機として有馬義貞は南蛮貿易を始めますが、同年に丹坂峠の戦いで龍造寺隆信に敗れて有馬氏は衰退を始めました。

南蛮船の来航とキリシタン化

永禄5年(1562年)に貿易港として開港した口之津でポルトガル人のアルメイダ修道士が布教活動を始めました。キリスト教は島原半島全体に広がり、領主有馬義直がキリシタンに改宗すると領民もこれに倣いました。日本に来航した東インド巡察師ヴァリニャーノは天正7年(1579年)に日本人司祭の育成のためセミナリヨやコレジョを設立しました。

九州征伐の所領安堵

天正12年(1584年)に有馬晴信は島津氏と連合して沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させました。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐では、島津氏との縁を切り豊臣方に加わり本領を安堵されました。有馬晴信は小西行長らと朝鮮出兵にも参戦しました。

長崎県南島原市の日野江城跡

日野江城跡

肥前西部最大の戦国大名である有馬氏の居城跡です。南北朝時代に建てられたと考えられており、庭園や茶室も備えられていました。

長崎県南島原市の南蛮船来航の地

南蛮船来航の地

南蛮貿易が行われたキリシタン布教の根拠地です。

江戸時代

有馬晴信は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属して加藤清正らと共に小西行長の宇土城を攻めました。しかし慶長17年(1612年)の岡本大八事件により有馬晴信は斬首され、跡を継いだ有馬直純は慶長19年(1614年)に日向延岡に転封となりました。

島原・天草一揆

有馬氏の転封により元和2年(1616年)に新たな領主となる松倉重政は、島原城築城のため領民に過剰な負担を強いたうえ、多くの領民が信仰していたキリスト教を徹底的に弾圧しました。跡を継いだ松倉勝家はさらに領民への搾取とキリシタン弾圧を進めたため領民の不満は高まり、度重なる大飢饉が拍車をかけて寛永14年(1637年)に島原・天草地方の農民が蜂起しました。寛永15年(1638年)に一揆はほぼ全滅して鎮圧されましたが、松倉勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われ斬首刑に処せられました。

長崎県南島原市の吉利支丹墓碑

吉利支丹墓碑

1610年に没したフィリ作右衛門ディオゴの墓碑で、3種類の十字紋と碑文が刻まれているのが特徴です。

長崎県南島原市の原城跡

原城跡

天草四郎時貞を総大将とする島原・天草一揆3万人余りは原城に籠城して約3ヶ月にわたり幕府軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により島原藩は廃止され島原県が置かれましたが、同年に島原県は廃止され長崎県に編入されました。平成18年には南島原市が誕生して現在に至ります。

南島原市に残るキリシタン墓碑

長崎県南島原市の加津佐町砂原のキリシタン墓碑

加津佐町砂原のキリシタン墓碑

野田浜海岸の松林にある2基の墓碑で、花十字紋入り板状扁平形伏碑と無紋無銘の板状平形碑からなります。

長崎県南島原市の加津佐町須崎のキリシタン墓碑

加津佐町須崎のキリシタン墓碑

加津佐はコレジヨ、セミナリヨが一時的に置かれた場所で、須崎の共同墓地には6基のキリシタン墓碑があります。

長崎県南島原市の口之津町白浜のキリシタン墓碑

口之津町白浜のキリシタン墓碑

花十字紋入り半円柱形柱状伏碑で、両方の軸部に浅い窪みがあり、正面軸部の方に花十字紋の線彫りがあります。

長崎県南島原市の南有馬町吉川のキリシタン墓碑

南有馬町吉川のキリシタン墓碑

かつて西洋の埋葬習慣であるブドウ酒樽に遺体を納めた習慣に倣いブドウ酒樽を横たえた形の一本石から成ります。

長崎県南島原市の北有馬町西正寺のキリシタン墓碑

北有馬町西正寺のキリシタン墓碑

正寺名字服田の共同墓地の一角に集められた4基のキリシタン墓碑で、隣接する八良尾と呼ばれるところにはセミナリヨが置かれていました。

長崎県南島原市の北有馬町谷川のキリシタン墓碑

北有馬町谷川のキリシタン墓碑

共同墓地にある花十字紋や流しやの銘入りの板状扁平形伏碑で、有馬ゆかりの貴婦人の墓とも言われます。

長崎県南島原市の西有家町里坊のキリシタン墓碑

西有家町里坊のキリシタン墓碑

大正6年(1917年)に畑の中から発見された5基の板状伏碑が畑の一角に集めています。

長崎県南島原市の有家町中須川のキリシタン墓碑

有家町中須川のキリシタン墓碑

有家町中須川の下前田は昔の教会とセミナリヨ跡と推定されており、多数のキリシタン墓碑が発見されています。

長崎県南島原市の有家町小川のキリシタン墓碑

有家町小川のキリシタン墓碑

明治35年(1902年)に発見された花十字紋入り方柱形柱状伏碑です。

長崎県南島原市の有家町尾上のキリシタン墓碑

有家町尾上のキリシタン墓碑

胴背面を水平に切り、小口面が台形状をなす平形伏碑で銘入のキリシタン墓碑です。

長崎県南島原市の有家町力野のキリシタン墓碑

有家町力野のキリシタン墓碑

有家キリシタン史跡公園内に移された2基のキリシタン墓碑です。

長崎県南島原市の布津町キリシタン墓碑群

布津町キリシタン墓碑群

宮本墓地の一角にある半円頭寝棺型、扁平蓋石型、切妻蓋石型(庵型)、丸型の4種類の墓石です。