熊本城を中心とした細川文化

熊本城は、加藤清正が築城した難攻不落の城で日本三名城の一つに数えられます。銀杏城とも呼ばれ、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。かつて熊本城は城郭には天守3、櫓49、櫓門18、城門29の豪壮な構えでした。細川氏が入国すると熊本城を中心として整備をすすめ、細川文化が華開きました。
熊本城の起源・千葉城
応仁・文明年間(1467~87年)に肥後国守護の菊池氏の一族である出田秀信は海抜50メートルほどの茶臼山に千葉城を築城しました。文明17年(1485年)に出田秀信は肥後国守護・菊池重信に従い相良・阿蘇連合軍と戦い、御船陣原で戦死したことで楠原城主の鹿子木親員(寂心)が千葉城主となりました。
隈本城の誕生
鹿子木氏は源頼朝の命により鹿子木荘の地頭として赴任した三池貞教を祖としており、豊後国の大友氏と同族でした。肥後国守護の菊池氏も永正17年(1520年)に大友義鑑の弟義武が継いでいたため、菊池氏、大友氏、鹿子木氏は同族となります。有力豪族である鹿子木氏は、飽田・託摩・玉名・山本の4郡を治めて千葉城では手狭となり、明応5年(1496年)に茶臼山の南西端に城を移して隈本城と名を改めました。
熊本城の前身・隈本城
菊池義武が大友義鑑から独立を図り敵対すると、天文4年(1535年)に大友軍が侵攻して菊池義武は敗れて島原へと逃げました。肥後国は大友氏の支配下となり、隈本城主鹿子木親員は大友氏に仕えることになりました。天文19年(1550年)に大友家中で二階崩れの変が起こり大友義鑑が横死すると、鹿子木鎮有は菊池義武を隈本城に迎い入れました。大友義鎮(のちの宗麟)が家中を統制して肥後に出兵すると、菊池氏は敗れて鹿子木氏は没落しました。隈本城には菊池義武討伐で功を得た鹿子木親員の女婿である城親冬に譲られました。
肥後国衆一揆
天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州討伐に出兵すると、城親冬の孫である城久基は開城して降伏しました。肥後国は越中国の領主である佐々成政に与えられ、城氏に代わり隈本城に入り居城としました。佐々成政の強引な検地に反対する国人は一揆を起こして隈本城を攻めましたが、城代の神保氏張が奮戦して隈本城を死守しました。天正16年(1588年)に一揆は鎮圧されましたが、佐々成政はその責任を取る形で切腹して肥後半国25万石を与えられた加藤清正が隈本城に入りました。
加藤清正による熊本城の改築
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属した加藤清正は、西軍に属した南肥後領主の小西行長の遺領を得て肥後国52万石の大名となりました。加藤清正は、慶長6年(1601年)から茶臼山の千葉城や隈本城を取り込む形で大規模な築城工事を始め、7年の歳月をかけて築かれた城は熊本城と名付けられました。

加藤清正
築城名人として知られ、白川と坪井川の流路を分離して内濠と外濠に見立てて防御を高め、城下町の配置された多くの寺院は敵を奇襲する仕掛けでした。

熊本城
巨大な城郭には高さ21メートルの石垣と6連続の枡形が配置されて2つの櫓門に櫓などが配置されました。籠城対策のため城内には多くの井戸と小天守に竈が設けられました。
細川忠利による文化興隆
加藤清正が死去して加藤忠広が家督を継ぎましたが、若年の加藤忠広に幕府が理不尽な要求を課したことで加藤家の家臣たちは対立して牛方馬方騒動が起こりました。加藤家は幕府から改易処分を言い渡されて豊前小倉城主の細川忠利が寛永9年(1632年)に入国して慶応3年(1867年)の大政奉還まで200年以上にわたり細川氏が城主を務めました。
水前寺成趣園
文人かつ武道にも優れた細川忠利は、寛永9年(1632年)に水前寺成趣園の前身となる茶屋を建てました。3代細川綱利はこの茶屋に桃山式の回遊式庭園を完成させて、中国の詩人・陶淵明の詩に由来して成趣園と名付けました。細川忠利は寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱を3万の大軍で鎮圧すると、寛永17年(1640年)には宮本武蔵を客人として招き、細川家保護のもとで二天一流兵法が創始され五輪書が執筆されました。

水前寺成趣園
阿蘇外輪から長い歳月を経てたどりついた伏流水が湧き出ています。桃山式の回遊庭園で東海道五十三次の景勝に見立てていると言われます。

古今伝授の間
慶長5年(1600年)に細川藤孝(幽斎)が智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授された建物で、大正元年(1912年)に京都御所内から移築されました。
熊本藩の藩政
細川忠利は手永という行政制度を整備して貨幣鋳造を行うなど内政に尽力しました。やがて熊本藩の領内は飢饉や干ばつなどの天災で凶作が続き、幕府の命令による利根川普請の負担で藩の財政は破綻寸前まで追い込まれました。6代藩主細川重賢は藩の財政再建と蘭学の傾倒のため宝暦の改革を行い、宝暦13年(1763年)に藩直営の製蝋所を完成させたほか、宝暦5年(1755年)に熊本城二ノ丸に藩校として時習館を開校しました。

泰勝寺庭園と細川家墓地
細川家の菩提寺で、細川家初代藤孝夫妻と2代忠興と妻ガラシャの墓の4つの御廟に杉木立に囲まれた苔園などがあります。

妙解寺跡と細川家墓地
初代藩主細川忠利を弔うため寛永19年(1642年)に建立されました。細川忠利夫妻の霊廟のほか、歴代藩主や子女と細川忠利の殉死者の墓が並んでいます。
西南戦争と熊本城
明治4年(1871年)に廃藩置県で熊本県が設置されると、明治7年(1874年)に熊本鎮台本営が熊本城本丸に置かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷隆盛率いる薩軍が熊本城を攻撃しました。熊本鎮台長官谷干城は3千ほどの兵を率いて、4倍以上の薩軍1万3千人を相手に52日にわたり籠城しました。

熊本城
難攻不落の城として真価を発揮しましたが、西南戦争直前の火災で天守や本丸御殿一帯が焼失しました。現在残されている天守は昭和35年(1960年)に再建したものです。