歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

熊本市

熊本県熊本市の熊本城

熊本市は九州の中央で熊本県のほぼ中央部に位置します。古くから活火山・阿蘇山を持つことから火の国と呼ばれ、有明海に面する熊本平野の大部分を占めています。坪井川、白川、緑川の3水系が貫流して緑潤う、森と水の都と呼ばれます。

概要

面積
390.32km2
人口
737,717人(2021年11月1日)
市の木
イチョウ
市の花
肥後ツバキ
市の鳥
シジュウカラ
地図

特集

熊本県熊本市の熊本城

熊本城を中心とした細川文化

加藤清正は日本三名城となる熊本城を築いて城下町を整備しました。のちに藩主となる細川家は水前寺成趣園の整備や宮本武蔵を招いて細川文化を開花させました。

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歴史

熊本市は旧石器時代から人の営みが残り西日本最大級の貝塚などが造られました。全国有数の穀倉地帯として国府が置かれ、やがて守護や豪族による争乱の地となりました。江戸時代には加藤清正が難攻不落の熊本城を築城しました。熊本城は西南戦争で攻められましたが、落城することはありませんでした。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

熊本市を貫流する白川の流域には旧石器時代から人の営みがありました。やがて定住を始めて阿高・黒橋貝塚や御領貝塚が造営されました。宮地遺跡群からは弥生時代中期の住居や甕棺墓、弥生時代後期の木棺墓や土壙墓が出土し、弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島からの渡来人の影響を受けた無文土器や青銅器が出土している遺跡もあります。

熊本県熊本市の阿高・黒橋貝塚

阿高・黒橋貝塚

縄文時代中期の土器のほか50体にも及ぶ人骨なども見つかりました。

熊本県熊本市の御領貝塚

御領貝塚

縄文時代後期の西日本最大級の貝塚で御領式土器が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

中央では蘇我入鹿が力を持つようになり、中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇4年(645年)に蘇我入鹿を暗殺して大化の改新を行いました。天皇を中心とした政治体制として、大化2年(646年)に肥後国府および兵力4軍団が設置されて豪族統治から国が統治する体制となりました。

熊本県熊本市の塚原古墳群

塚原古墳群

4~6世紀にかけて造営された方形周溝墓39基、円墳34基、前方後円墳1基、石棺18基、石蓋土拡1基が発見されています。

熊本県熊本市の千金甲古墳(甲)

千金甲古墳(甲)

5世紀に権現山中腹に造営され、石室内に同心円文、対角線文などが刻まれ赤色と緑色などで装飾されています。

熊本県熊本市の千金甲古墳(乙)

千金甲古墳(乙)

6世紀に高城山に造営され、石室内の石屋形に靫、舟、弓、刀、同心円文などが刻まれています。

熊本県熊本市のつつじヶ丘横穴群

つつじヶ丘横穴群

古墳時代末期の6世紀後半から7世紀前半にかけて立田山南麓に造営された横穴墓です。

熊本県熊本市の浦山横穴群

浦山横穴群

7世紀末に建造された横穴の集団墓です。

熊本県熊本市の釜尾古墳

釜尾古墳

井芹川沿いの釜尾台地の突端部に6世紀に造営された円墳で、内部の横穴式石室の石材には紋様が残されています。

熊本県熊本市の稲荷山古墳

稲荷山古墳

坪井川の谷に臨む打越丘陵に6世紀後半に造営された円墳で、内部に安山岩の割石と自然石を併用した横穴式石室が残されています。

奈良時代、平安時代

肥後国司に任命された道君首名は、灌漑用の大きな溜池として味生池を造営しましたが、味生池には龍が棲みついて人びとに害を与えるようになりました。国司は京から真澄という高僧を呼び、和銅3年(710年)に池辺寺を創建して龍を鎮めました。

肥後国府

平安時代中期に肥後国に阿蘇荘、鹿子木荘、山鹿荘などの荘園ができ、肥後国は全国有数の穀倉地帯として全国十三の大国の一つに数えられました。国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされ、詫間国府は熊本市の二本木遺跡と推定されています。名門貴族の紀夏井は貞観7年(865年)に肥後の国司となり善政を施きましたが、応天門の変により土佐に流されました。寛和2年(986年)には清少納言の父清原元輔が国司に任命されています。

熊本県熊本市の池辺寺跡

池辺寺跡

繁栄と荒廃を繰り返して明治3年(1870年)の廃仏毀釈まで存続し、本堂の礎石群の裏に百基の石塔が整然と並んでいる遺構が残ります。

鎌倉時代、南北朝時代

平安時代末期から菊池市を中心に菊池氏が台頭してくると、菊池氏は壇ノ浦の戦いで源氏方に寝返り鎌倉時代に御家人となりました。菊池氏は元寇襲来で奮戦して南北朝時代には後醍醐天皇の南朝方として活躍して、菊池武朝が肥後国守護となりました。

熊本県熊本市の大慈寺境内

大慈寺境内

鎌倉時代中期の河尻領主・河尻泰明は、順徳天皇の皇子と言われる寒巌義尹に帰依して弘安元年(1278年)に境内地を寄進して大慈寺を創建しました。

熊本県熊本市の雲厳禅寺境内

雲厳禅寺境内

正平6年(1351年)には日本に渡来した元の禅僧・東陵永璵が建立しました。寺の奥には宮本武蔵が五輪書を著した霊巌洞があります。

室町時代、安土桃山時代

菊池氏の一族である出田秀信は出田村を領して文明元年(1469年)に千葉城を築城しました。出田秀信は守護菊池重朝に従い相良・阿蘇の連合軍と戦い御船陣原で戦死したため、千葉城には楠原城主の鹿子木親員が入りました。鹿子木親員は明応5年(1496年)に居城を茶臼山に移して、隈本城と称するようになりました。

隈本城の争奪戦

天文4年(1535年)の大友氏の侵攻により肥後国守護菊池義武は島原へと逃れましたが、天文19年(1550年)に大友家中の二階崩れの変で大友家当主義鑑が横死すると、隈本城は菊池義武の支配下に復帰しました。やがて大友家中を纏めた大友義鎮が肥後に侵攻すると隈本城には城親冬が入りました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州討伐において佐々成政が隈本城に入りますが、検知に反対する国人一揆の責任により佐々成政は切腹し、天正16年(1588年)に加藤清正が隈本城に入城しました。

江戸時代

加藤忠広が加藤清正の跡を継ぐと幕府の命令に対して家臣団が対立して牛方馬方騒動となり、加藤家は改易されて寛永9年(1632年)に細川忠利が肥後藩主となりました。この年に建てた茶屋は3代藩主細川綱利が桃山式回遊式庭園として整備して、中国の詩人・陶淵明の詩に由来して成趣園と名付けられています。細川忠利は寛永17年(1640年)に剣豪宮本武蔵を招いたほか、寛永14年(1637年)にはのちに泰勝寺と改称される泰勝院を建立しました。

藩政改革

4代藩主細川宣紀の統治時代は、享保5年(1720年)あたりに干ばつが相次いで凶作が続き、幕府による利根川普請の負担で班の財政が破綻寸前となりました。6代藩主細川重賢は藩の財政再建と蘭学の傾倒のため宝暦の改革を行い、宝暦4年(1754年)に藩校時習館を開校、宝暦6年(1756年)に医学校再春館と付属機関の蕃滋園を造り薬草研究を行い、宝暦13年(1763年)には藩直営の製蝋所を完成させて収入を増やしました。

熊本県熊本市の熊本城

加藤清正

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍についた小西行長の遺領を得ました。築城名人で熊本城を築城しました。

熊本県熊本市の熊本城

熊本城

慶長6年(1601年)に加藤清正が日本三名城に数えられる熊本城の建造を始め、河川の築堤や井戸の掘削など行い城下町を整備しました。

熊本県熊本市の泰勝寺庭園と細川家墓地

泰勝寺庭園と細川家墓地

細川家の菩提寺で、細川家初代藤孝夫妻と2代忠興と妻ガラシャの墓の4つの御廟に杉木立に囲まれた苔園などがあります。

熊本県熊本市の妙解寺跡と細川家墓地

妙解寺跡と細川家墓地

初代藩主細川忠利を弔うため寛永19年(1642年)に建立されました。細川忠利夫妻の霊廟のほか、歴代藩主や子女と細川忠利の殉死者の墓が並んでいます。

熊本県熊本市の水前寺成趣園

水前寺成趣園

3代藩主細川綱利が造営した庭園で阿蘇外輪から長い歳月を経てたどりついた伏流水が湧き出ています。桃山式の回遊庭園で東海道五十三次の景勝に見立てていると言われます。

熊本県熊本市の熊本藩川尻米蔵跡

熊本藩川尻米蔵跡

物資の流通や貿易の拠点である川尻に置かれた熊本藩の年貢米の集積場で、毎年20万俵の年貢米が収蔵されて大阪蔵屋敷や熊本城下へ搬送されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により熊本県が設置され鎮西鎮台が置かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では西郷隆盛率いる薩軍が熊本城を攻めて市街地の大半が兵火により焼失しました。明治22年(1889年)に熊本市が誕生してから明治24年(1891年)門司から熊本間に九州鉄道が開通して、明治42年(1909年)に鹿児島本線が全線開通しています。

熊本県熊本市の西南戦争遺跡(七本官軍墓地)

西南戦争遺跡(七本官軍墓地)

熊本鎮台14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水、木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島など熊本鎮台の兵士約300名が埋葬されています。

熊本県熊本市の西南戦争遺跡(明徳官軍墓地)

西南戦争遺跡(明徳官軍墓地)

植木町向坂の戦いで戦死した政府軍の将兵92名を中心に122の墓碑が置かれています。

熊本県熊本市の徳富旧邸(大江義塾跡)

徳富旧邸(大江義塾跡)

明治・大正・昭和にかけての大ジャーナリスト徳富蘇峰と、明治・大正の文豪徳富蘆花が父とともに生活してた場所です。

熊本県熊本市の熊本市街

熊本市街

和20年(1945年)には大空襲で大きな被害を受け、昭和28年(1953年)には白川大水害により人口の7割近くが罹災して市街地が壊滅的な被害を受けました。