歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西南戦争最大の激戦・田原坂

熊本県熊本市の田原坂

明治10年(1877年)に勃発した西南戦争で、薩軍は熊本鎮台がある熊本城を包囲しました。久留米方面から熊本城の救援に向かう政府軍は、砲隊が唯一通過できる田原坂を進軍しました。薩軍は田原坂を通過することを予想して陣地を構築し、17日間にわたる激戦となりました。民謡田原坂には、雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂…と当時の様子が詠われています。

私学校創設と士族の不満

明治6年(1873年)に征韓論争に敗れた西郷隆盛は、故郷鹿児島に戻り私学校を創設しました。私学校では外国との争いを想定して、幼年学校、銃隊学校、砲隊学校を設立して、桐野利秋や村田新八らが軍事指導に当たりました。この頃の明治政府は士族から特権をはく奪する政策を推し進め、不満を溜めた士族は佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱と反乱を起こしました。

鹿児島県鹿児島市の私学校

私学校

西郷隆盛が士族を指導するために創設した学校で、桐野利秋ら幹部が外国からの侵攻を見据えて銃や大砲の扱い方などの戦闘訓練を指導しました。

西南戦争の勃発

私学校の生徒が鹿児島の政治をリードするようになると、明治政府は私学校を有する鹿児島を脅威と見なしました。大警視の川路利良は中原尚雄ら視察団を薩摩に派遣しますが、視察団が鹿児島の武器や弾薬を無断で運び出して私学校生徒を刺激したことで、私学校生徒が火薬庫を襲撃する事件に発展しました。この報を受けた西郷隆盛は鹿児島へと戻り、明治10年(1877年)についに挙兵しました。西郷挙兵の報は瞬く間に各地に知れ渡り、薩軍1万3千人に各地の不平士族が集結して、総勢3万の大軍となりました。

鹿児島県肝属郡の西郷隆盛逗留地

西郷隆盛逗留地

西郷隆盛は東京から下野して鹿児島で逗留生活を送りました。西郷隆盛は南大隅町根占の平瀬邸で私学校生徒が暴徒化したことを聞いたとされます。

鹿児島県鹿児島市の大口筋

大口筋

鹿児島を出発した薩軍は、大口筋を進軍して熊本へと向かいました。熊本城を攻略の目標としましたが、政府の援軍が到着したため田原坂で激戦となります。

熊本城の攻防

熊本鎮台が置かれている熊本城は、明治政府において九州の軍事的な要でした。戊辰戦争を戦い抜いた士族で編成された薩軍は、平民を徴兵した政府軍を軽視し、重要な拠点である熊本城を攻撃しました。熊本鎮台・谷干城は3千ほどの兵で籠城し、4倍以上の薩軍1万3千人を相手に激しく抵抗しました。熊本城は堅牢で戦いは長期化し、本州からの援軍が熊本城を目指して進軍したため、薩軍は3千の兵を残して北上する作戦に変更しました。

熊本県熊本市の熊本城

熊本城

難攻不落の城として真価を発揮しましたが、西南戦争直前の火災で天守や本丸御殿一帯が焼失しました。現在残されている天守は昭和35年(1960年)に再建したものです。

高瀬の戦い

小倉を出発した乃木希典は、高瀬から植木に入り、村田三介率いる薩軍と交戦になりました。薩軍は植木出身の熊本協同隊の支援を受けて政府軍を千本桜まで押し返し、この戦闘で明治天皇から与えられた連隊旗が薩軍に奪われました。熊本城を包囲していた薩軍は3千の兵を残して進軍し、高瀬や木葉で戦闘となりました。高瀬の戦いでは、西郷隆盛の弟である西郷小兵衛が戦死、息子の西郷菊次郎も足を負傷しました。薩軍は北上を諦めて植木まで撤退し、政府軍は木葉村に本営を置きました。

熊本県玉名郡の薩軍木葉本営址

薩軍木葉本営址

薩軍が本営と野戦病院を置いていた場所で、田原坂、吉次峠、植木方面の拠点でした。吉次峠で狙撃された篠原国幹はここに運ばれて亡くなりました。

熊本県玉名郡の薩軍熊本隊本営址

薩軍熊本隊本営址

薩軍に呼応した熊本の士族や農民などで編成された熊本隊が本営を置きました。池辺吉十郎を隊長とし、佐々友房ら1500名で構成されました。

熊本県玉名郡の官軍木葉本営址

官軍木葉本営址

政府軍が田原坂を攻略するため、作戦司令や後方支援の拠点として設置した本営です。この本営は激戦地の最前線基地となりました。

熊本県玉名郡の有栖川宮御督戦跡

有栖川宮御督戦跡

政府軍の最高指揮官である征討総督・有栖川宮熾仁親王が田原坂の激戦を指揮するため、この小高い丘から戦況を視察・指揮した場所とされています。

熊本県玉名郡の日赤発祥之地

日赤発祥之地

佐賀藩出身の元老院議官・佐野常民は、博愛社を設立して敵味方の区別なく負傷兵の救護活動を行いました。人道的な医療救護はのちに日本赤十字社へと発展します。

熊本北部の防衛

高瀬から熊本城まで向かうには、有明海沿いから金峰山を越えるほか、険しい吉次峠や緩やかな田原坂を通過する必要があり、このうち砲隊が通過できるのは田原坂だけでした。薩軍は田原坂や吉次峠に陣地を築き、久留米方面から進軍する政府軍の最終防衛線としました。

田原坂の戦い

政府軍は連射が可能なスナイドル銃を装備していましたが、薩軍は先込め式のエンフィールド銃を扱いました。エンフィールド銃は雨が降ると銃口に雨水が侵入して使い物にならないため、薩軍は抜刀攻撃を展開して白兵戦に持ち込みました。平民で組織された政府軍は士族出身者の抜刀攻撃に苦戦したため、政府軍は警視隊の精鋭から抜刀隊を編成して戦いました。2週間にわたり乱戦が続きましたが、圧倒的な物量と近代兵器の性能差で政府軍が田原坂を突破しました。

熊本県熊本市の田原坂

田原坂

西南戦争最大の激戦地として知られる場所です。一の坂から三の坂まで続く狭くて緩やかな坂で、昼夜を問わず17日にわたり激しい攻防戦が繰り広げられました。

熊本県熊本市の田原坂_美少年の像

美少年の像

命を落とした少年兵も多く、民謡田原坂には「雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂 右手に血刀、左手に手綱、美少年を戦場に送る」と詠われます。

熊本県熊本市の田原坂_弾痕の家

弾痕の家

田原坂では弾丸が空中でぶつかり合うほどの凄まじい銃撃戦が展開されました。田原坂公園にある土蔵には無数の弾痕が残されています。

熊本県熊本市の田原坂_谷村計介戦死之碑

谷村計介戦死之碑

宮崎県出身の谷村計介は、薩軍に包囲された熊本城から政府軍本営へ密命を伝える任務を果たし、任務を終えて前線の戦いに参加して戦死しました。

熊本県熊本市の田原坂_薩軍兵站の地(湧水池)

薩軍兵站の地(湧水池)

田原坂を突破するために横平山の攻略が重要となりましたが、両軍ともに飲料水はこの湧水のみで、負傷兵がこの湧水に運ばれて多くがここで絶命しました。

吉次峠の戦い

田原坂を攻めていたとき、吉次峠でも政府軍と薩軍の戦いが起こりました。篠原国幹や村田新八率いる薩軍は猛烈な攻撃を行い、篠原国幹は狙撃されて討死しました。それでも薩軍はひるむことなく政府軍を押し返し、吉次峠はあまりにも多くの死者を出したことで地獄峠とも呼ばれました。

熊本県玉名郡の吉次峠古戦場跡

吉次峠古戦場跡

田原坂の戦いと並行して吉次峠でも激しい戦闘が繰り広げられました。官軍は苦戦を強いられましたが、田原坂が突破されたことで政府軍が占領しました。

熊本県玉名郡の篠原国幹戦死の地

篠原国幹戦死の地

薩軍の幹部である篠原国幹は、赤い裏地のあるマントを翻し、銀色の太刀を佩びて陣頭指揮を執りましたが、官軍の狙撃を受けて戦死しました。

追いつめられる薩軍

田原坂の戦いが繰り広げられている頃、明治政府は勅使として柳原前光を鹿児島に派遣しました。勅使一行は薩軍の軍資金や兵糧、弾薬をすべて没収して火薬製造所を破壊し、薩軍に加担した鹿児島県令大山綱良を逮捕しました。政府軍の別動隊は日奈久に上陸して八代を制圧して、薩軍の補給路を遮断することに成功しました。

西南戦争の終結

八代を制圧された薩軍は、人吉を経由して宮崎方面に撤退しました。西郷隆盛は延岡で薩軍の解散を布告して、僅かな手勢で可愛岳を経て鹿児島に戻りました。薩軍は鹿児島城山に籠城しますが、総攻撃を受けて日本最後の内乱は終結しました。西南戦争は徴兵された一般人が士族に勝利したことを意味し、武士の世は完全に終焉を迎えました。

鹿児島県鹿児島市の西郷洞窟

西郷洞窟

鹿児島に帰還した西郷隆盛たちは、鹿児島城山の洞窟で最後の5日間を過ごしました。政府軍は城山に総攻撃をかけて薩軍は西後の突撃を行うことになります。

鹿児島市の南洲墓地

南洲墓地

西郷隆盛を中心として、西南戦争で命を落とした薩軍2000人が祀られています。中でも桐野利秋は甘いマスクで今でも人気が高いようです。

熊本県熊本市の西南戦争遺跡(七本官軍墓地)

西南戦争遺跡(七本官軍墓地)

熊本鎮台14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水、木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島など熊本鎮台の兵士約300名が埋葬されています。

熊本県熊本市の西南戦争遺跡(明徳官軍墓地)

西南戦争遺跡(明徳官軍墓地)

植木町向坂の戦いで戦死した政府軍の将兵92名を中心に123の墓碑が置かれています。階級により墓石の高さが異なるのが特徴です。

熊本県玉名郡の城ノ原官軍墓地

城ノ原官軍墓地

主に高瀬や木葉方面で戦死した政府軍の墓地で、政府軍将校177名が埋葬されています。西南戦争時は野戦病院の西宗寺に仮埋葬されていました。

熊本県玉名郡の肥猪町官軍墓地

肥猪町官軍墓地

鍋田の戦闘で戦死した政府軍兵士の墓地で、兵士や警察官など180名が埋葬されています。昭和52年(1977年)に西南戦争100年を記念して県指定史跡になりました。

熊本県玉名郡の下岩官軍墓地

下岩官軍墓地

田原坂の戦いに続く岩村・鍋田方面の激戦で戦死した政府軍兵士の墓地で、政府軍将校133名と軍夫16名が埋葬されています。

熊本県熊本市の七本柿木台場薩軍墓地

七本柿木台場薩軍墓地

木留・七本原付近で戦死した薩軍兵士の墓地で、七本で戦死した熊本隊3番小隊長の城市郎ほか、この周辺で戦死した薩軍311名が埋葬されています。