歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

人吉城と相良700年の歴史

熊本県人吉市の人吉城

人吉市域は鎌倉時代に下向した相良家が明治時代を迎えるまで700年もの間統治しました。このような大名は島津氏のほかに存在しない珍しいものです。相良氏はそのほとんどを人吉城を中心に活動し、最盛期に薩摩や大隅の北部から八代や天草まで支配しました。相良氏の居城人吉城は明治時代に廃城となりますが、西南戦争では重要な拠点となりました。

相良氏の人吉下向

現在の人吉市がある球磨郡は、平家の都落ちに帯同せずに源頼朝の保護を受けた平頼盛が領していました。平頼盛が死去すると幕府は所領を没収して、建久4年(1193年)に相良頼景が球磨郡多良木村を拝領し、元久2年(1205年)に相良頼景の嫡子相良長頼が人吉荘の地頭職となりました。

相良氏の人吉下向

寛元2年(1244年)に一族内の所領論争で敗れた相良長頼は、幕府から人吉荘の下地中分の処分を受け、人吉荘北方は北条得宗領とされました。相良氏は所領回復を悲願として、元寇来襲では多良木相良家の相良頼氏をはじめ人吉相良家相良頼俊などが文永・弘安の役に出兵しました。鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇子尊良親王が鎮西探題追討のため大宰府原山の地に着陣すると、相良氏はその下に参上しています。

熊本県球磨郡の青蓮寺古塔碑群

青蓮寺古塔碑群

蓮寂と追刻された五輪塔は、建久4年(1193年)に遠江から下向した相良頼景の墓と考えられています。

熊本県人吉市街

人吉市街地

人吉盆地に球磨川が貫流する肥沃な大地で、相良長頼は平頼盛の代官である矢瀬主馬助を滅ぼして人吉城に入りました。

熊本県人吉市の願成寺相良家墓地

願成寺相良家墓地

天福元年(1233年)に願成寺を創建して人吉相良家の菩提寺としました。

南北朝時代の相良家中の戦い

南北朝の動乱では、多良木相良家の相良経頼は南朝方となり、人吉相良家相良頼広と相良定頼は北朝方に付いて球磨郡内で合戦を繰り広げました。争いは南朝方の相良経頼が優勢でしたが、全国的に北朝方が優勢となると球磨郡も次第に北朝方が優勢となり、最終的に南朝方の相良経頼が北朝に降伏する形で決着しました。

九州探題今川了俊に帰順

相良前頼は南朝方に与するようになり、弘和3年(1381年)に征西将軍宮より球磨郡及び芦北荘の所領を安堵されました。しかし北朝方の九州探題今川了俊に攻められ、元中8年(1391年)に降伏しました。翌年には全国的にも南北朝合一が成立して南北朝の動乱が収束しますが、相良氏は今川了俊の配下として活動するようになります。

熊本県人吉市の多良木地区

多良木地区

多良木相良家が治めていましたが、南北朝の争乱で人吉相良家の相良定頼の跡を継いだ相良前頼が一族を束ねるようになり、長年の悲願である人吉荘北方の地を取り戻しました。

相良一族の争いと人吉相良家

今川了俊に帰順した相良前頼は、今川氏の命令で島津氏討伐に参加して明徳5年(1394年)に日向国都城で相良前頼とその兄弟3人が討死しました。跡を継いだ相良実長は大隅・薩摩国北部の国人と連携して島津氏の内乱に介入しますが、相良前続は島津家当主島津忠国の妹を正室に迎えて島津氏との関係も安定しました。幼年の相良堯頼が家督を相続すると多良木相良氏の反乱を招いて文安5年(1448年)に多良木相良家の相良頼観・頼仙兄弟により追放されました。この反乱にて相良氏庶流の永留長続が多良木相良家を滅ぼし、結果的に人吉相良家当主となりました。相良長続は長禄元年(1457年)に球磨郡諸氏の反乱を鎮圧し、薩摩国北部の大口方面などに進出するようになりました。

人吉相良氏の最盛期

相良長続は長禄4年(1461年)に肥後国守護菊池氏から芦北郡の所領を安堵され、跡を継いだ相良為続は明応2年(1493年)に七ヶ条の壁書(相良氏法度)を定めて地域権力の基礎を固めました。相良長毎は永正元年(1504年)に菊池能運と提携して名和氏を追放して十三ヶ条の壁書を定めて八代の統治を始めました。相良長毎の跡は若年の相良長祗が継ぎますが、大永4年(1524年)に相良長定に追放されて、大永6年(1526年)の観音寺瑞堅の反乱を鎮圧して信頼を得た相良長唯が当主となりました。相良長唯は将軍足利義晴から義の字を与えられ相良義滋と名乗り、天草を勢力下に置いて八代城(古麓城)に居城を移しました。天文8年(1539年)には海外貿易船・市来丸を建造して琉球まで交易を行い、肥後南半分の領主として最盛期を迎えました。

熊本県八代市の八代城跡(古麓城跡)

古麓城跡

名和氏が本拠としていました。相良氏が支配下に置くと天文3年(1534年)に相良長唯が城の大規模な整備と城下町の整備を行いました。

相良氏の降伏

相良義滋は弟の相良長隆の反乱を治めるため、重臣の上村頼興に対して家督を譲ることを条件に加勢を依頼しました。上村頼興の嫡男が相良義滋の養子に入り相良長為として家督を相続し、天文14年(1545年)に足利義晴の一字を賜り相良晴広と改名しました。一族の上村洞然は相良家の歴史を纏めた沙弥洞然長状を著したほか、天文24年(1555年)に二十一ヶ条の法度(相良氏法度)を定めて家中を統制しました。

相良氏の降伏

弘治元年(1555年)に相良晴広が没すると、嫡男の相良義陽が若年で当主となりました。相良義陽は弘治3年(1557年)の上村一族の反乱や永禄2年(1559年)の獺野原合戦を鎮圧しますが、島津氏とは領地争いが激しくなり永禄11年(1568年)の薩摩国大口の戦いで大敗しました。前関白近衛前久の仲介により一時的に和平が成立しますが、天正9年(1581年)の水俣城を巡る攻防戦で相良氏は島津氏に降伏しました。相良義陽は島津氏の命で阿蘇を攻めますが、響野原(熊本県宇城市豊野)で阿蘇氏家老の甲斐宗運の急襲を受け戦死しました。家督は家老の深水宗方や犬童休矣らの尽力により、島津氏の人質とされていた相良忠房が相続しました。

熊本県水俣市の水俣城

水俣城

天正9年(1581年)に島津氏の侵攻で犬童頼安が籠城しましたが、相良義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏して芦北や八代を一気に失いました。

九州征伐と関ヶ原の戦い

天正13年(1585年)に家督を相続した相良頼房は島津氏の九州統一の合戦に出陣しますが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐では、八代で深水宗芳が豊臣秀吉に謁見し、続いて佐敷で相良頼房が豊臣秀吉に謁見して所領が安堵されました。相良頼房は文禄元年(1592年)の豊臣秀吉の朝鮮出兵では要衝の江原道にある安辺城を守備し、慶長の役では朝鮮半島南部の釜山や巨済島を守備しました。しかし家中は混乱し、家臣の深水頼蔵が加藤家に出奔し、人吉領内では深水一族が謀反を企てる騒動が起こりました。

人吉藩の成立

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは交流を深めていた西軍の石田三成に与しましたが、同時に徳川家康の家臣である井伊直政に通じていました。関ヶ原の戦いで後方の大垣城の守備を任されていた相良頼房は、西軍が敗退したことを知るとすぐに大垣城の守将5名を斬り東軍にその首を指し出して大垣城を開城しました。この功が認められて徳川家康から球磨郡の安堵されました。

藩財政を支えた球磨焼酎

初代藩主相良頼房は、人吉城の改修と城下町の整備を進めました。3代藩主相良頼喬は寛文4年(1664年)に林正盛に命じて日本三急流のひとつ球磨川を開削して球磨川を利用した物流を活発にしたほか、上球磨に百太郎溝・幸野溝の二大用水路を整備して米の生産量を増やしました。これにより米を原料とする球磨焼酎の生産が活発となり他藩にも輸出されて藩の大きな収入源ともなりました。

熊本県人吉市の人吉城跡

人吉城跡

相良頼房の命を受けた犬童頼兄は、元和2年(1616年)に石垣の整備を始めて近代城郭に改修しましたが、のちに失脚して津軽に流刑となりました。

熊本県人吉市の人吉城下町

人吉城下町

文禄3年(1594年)に相良頼房が犬童休矣に命じて整備が進められました。城下町は人吉七町と呼ばれ、九州の小京都と呼ばれるようになりました。

混乱する藩政

天災により財政が窮地に陥ると、相良頼峯は宝暦6年(1756年)に藩士の給録の半分を差し押さえる御手判銀を打ち出し、政策を打ち出した家老方と反発する門葉方の対立が激化しました。門葉方の相良頼央が跡を継ぐと、宝暦9年(1759年)に竹鉄砲事件が起こり相良頼央が暗殺されました。これにより相良家は日向秋月家から相良晃長、京都鷲尾家から相良頼完、美濃苗木藩遠山家から相良福将、岡山藩池田家から相良長寛と相次いで養子が迎えられて家督が受け継がれました。

藩政改革と茸山騒動

11代藩主相良長寛は、天明6年(1786年)に儒学者東白髪を教授として藩校習教館を創立し、天明8年(1788年)には武芸道場として郷義館を人吉城内に創設しました。13代藩主相良頼之の家老田代政典は、悪化した財政を立て直すため椎茸の藩専売制を導入しますが、天保12年(1841年)に農民の不満が爆発して人吉藩で唯一の一揆となる茸山騒動を誘発しました。人吉藩の財政改革は頓挫してしまい、安政元年(1854年)の大地震の被害や文久2年(1862年)の人吉城下最大の寅助火事では、大坂商人の近江屋から1万両、薩摩藩から5千両を借金して資金を調達しました。

熊本県人吉市の花立隠れ念仏

花立隠れ念仏

武士や領民たちは戦国時代から禁止されていた一向宗の信仰を隠れて続けており、天明元年(1781年)に一向宗禁制を犯した罪で山田村の伝助が処刑されました。

西南戦争

幕末の人吉藩では、軍制改革として西洋流兵術と山鹿流兵術の派閥で論争が起こりました。寅助火事により焼失した武器類の新規調達で対立が激化し、慶応元年(1865年)に丑年騒動が起こりました。この騒動で西洋流兵術派は一掃され、寅助火事で融資を受けた恩に報いる形で薩摩藩が導入する英国式の最新軍制を取り入れました。こうした背景で明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では薩軍に加担するため人吉隊が結成されました。

人吉攻防戦

田原坂の戦いで敗れた薩軍は人吉で体制を建て直すため、永国寺を本営として明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城とされていた人吉城を防衛拠点としました。政府軍は村山台地に砲台陣地を築いて砲撃戦を展開し、人吉は陥落して西郷軍は大畑に撤退、人吉隊も撤退した田代で政府軍に降伏しました。

熊本県人吉市の永国寺

永国寺

幽霊の掛け軸があることから幽霊寺とも呼ばれています。西南戦争では西郷軍の本営が置かれ、戦災により寺は全焼しました。

熊本県人吉市の旧新宮家武家屋敷

旧新宮家武家屋敷

西郷隆盛が宿舎として33日間滞在しましたが、政府軍が人吉に迫ると西郷隆盛は宮崎県小林方面へ移動しました。