人吉市

九州山地の連山に囲まれた盆地にある人吉市は、熊本県南部に位置し日本三急流のひとつ球磨川が東西に貫流します。九州の奥座敷や九州の小京都という名で呼ばれ陸の孤島と呼ばれてきましたが、平成7年(1995年)に九州自動車道が全線開通してアクセスが飛躍しました。
概要
- 面積
- 210.55km2
- 人口
- 31,021人(2021年11月1日)
- 市の木
- かし
- 市の花
- うめの花
- 市の鳥
- うぐいす、ヤマセミ
- 地図
特集
歴史
球磨川が貫流する人吉市は、旧石器時代から人の営みが残されています。古墳はあまりなく阿蘇溶結凝灰岩の断崖に横穴を形成して墓陵としています。平安時代には平家の支配下にありましたが、鎌倉時代に相良氏が下向して明治時代まで治めました。明治時代の西南戦争では西郷軍が人吉に布陣し政府軍から攻撃されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
人吉市は旧石器時代から人の営みがありました。姶良火山による火山灰の層を境に分けられ、上層に白鳥平遺跡、村山闇谷遺跡、天道ヶ尾遺跡、岩清水遺跡、鼓ヶ峰遺跡などがあり、その下層には血気ヶ峯遺跡や大野遺跡があります。縄文時代創成期の白鳥平遺跡から爪形文土器が出土し、村山闇谷遺跡や天道ヶ尾遺跡で縄文時代早期の集石遺構や炉穴が見つかり、岩清水遺跡からは岩清水式土器が出土しています。鼓ヶ峰遺跡からは縄文時代前期から後期の曽畑式土器が出土しています。

鹿目の滝
日本の滝100選に選ばれた落差36メートルの雄滝と落差30メートルの雌滝、緩やかな流れの平滝からなります。
古墳時代、飛鳥時代
5世紀後半になると人吉盆地中央部を中心として高塚古墳が造営され、5世紀後半になると鬼塚古墳が造営されました。これらはいずれも円墳で、前方後円墳は亀塚古墳だけが残されています。

大村横穴群
6世紀後半から7世紀に阿蘇溶結凝灰岩の断崖に形成した横穴墓で、27基の横穴に幾何学模様などが残されています。
奈良時代、平安時代
大化元年(645年)の大化の改新により律令国家が成立すると、現在の人吉市は球磨郡が編成されて郡衙が置かれていたと考えられています。球磨郡には上球磨に久米氏、中球磨に須恵氏、平河氏、下球磨に人吉氏などの豪族が郡内の有力者として活動していたとみられています。
平家の影響
保元2年(1157年)に平清盛が大宰府の長官である大宰大弐となり、院勢力と結びついた平氏の九州支配が本格的に展開しました。球磨郡の全域は蓮華王院領となり、平頼盛の代官として矢瀬主馬佑が任命されました。寿永4年(1185年)に平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡しますが、平頼盛は平家の都落ちに帯同せずに源頼朝の保護を受けたため球磨郡が安堵されましたが、文治2年(1186年)に平頼盛の死去に伴い球磨郡の安富領が没収されました。

青井阿蘇神社
大同元年(806年)に創建した長い歴史があり、現在の社殿は初代藩主相良長毎(頼房)が建てました。
鎌倉時代、南北朝時代
建久4年(1193年)に相良頼景が球磨郡多良木村を拝領し、元久2年(1205年)に頼景の嫡子相良長頼が人吉荘の地頭職を拝命して、平頼盛の代官である矢瀬主馬助を滅ぼして遠江国相良荘から下向しました。多良木家と人吉家は所領問題で関係が悪化し、南北朝時代には多良木家は南朝方、人吉家は北朝方として争いました。やがて北朝方の人吉家が一族を束ねるようになりました。
室町時代、安土桃山時代
幼年で家督を継いだ相良堯頼は、多良木相良氏の反乱を招いて文安5年(1448年)に人吉から追放されましたが、相良氏庶流の永留長続が多良木相良家を滅ぼしたことで相良長続として当主となりました。相良長続は球磨郡諸氏の反乱を鎮圧して基盤を盤石なものとし、薩摩国北部の大口方面に進出しました。相良長毎は八代、相良義滋の代には天草も含めて最大版図を築きました。
島津氏の侵攻
上村頼興の嫡男が相良義滋の養子に入り相良晴広として家督を相続しますが、その嫡男相良義陽が若年で家督相続すると家中で内乱が起こり、島津氏との関係も悪化しました。永禄11年(1568年)の薩摩国大口の戦いで大敗して天正9年(1581年)の水俣城を巡る攻防戦で相良氏は島津氏に降伏しました。相良義陽は島津氏の命で阿蘇を攻めましたが、阿蘇氏家老の甲斐宗運の急襲で戦死しました。
江戸時代
相良義陽の跡を継いだ相良頼房は豊臣秀吉の九州征伐で球磨郡の所領を安堵され、関ケ原の戦いで西軍に与しつつも西軍が大敗した直後に大垣城を開城した功で所領が安堵されました。相良頼房は犬童頼兄に命じて人吉城を近代城郭に変え、人吉七町と呼ばれる城下町を整備しました。人吉藩は米を原料とする米焼酎の醸造を推奨して藩の財政を支えました。
財政難の人吉藩
相良長寛は天明6年(1786年)に儒学者東白髪を招いて藩校習教館を創立し、天明8年(1788年)には武芸道場として郷義館を人吉城内に創設しました。悪化した財政を立て直すため、相良頼之の家老田代政典は椎茸の藩専売制を行いましたが、農民の不満により天保12年(1841年)に茸山騒動が起こりました。安政元年(1854年)の大地震や文久2年(1862年)の人吉城下最大の大火である寅助火事により人吉城と城下町の大半が焼失する被害を受けました。

人吉城跡
相良頼房の命を受けた犬童頼兄は、元和2年(1616年)に石垣の整備を始めて近代城郭に改修しましたが、のちに失脚して津軽に流刑となりました。

人吉城下町
文禄3年(1594年)に相良頼房が犬童休矣に命じて整備が進められました。城下町は人吉七町と呼ばれ、九州の小京都と呼ばれるようになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で人吉県となりますが、同年に八代県から白川県(のちの熊本県)に編入されました。明治10年(1877年)の西南戦争では、旧人吉藩士の一部が人吉隊を結成して西郷軍に加勢しました。人吉の戦いでは、西郷軍が人吉城や永国寺周辺に陣を敷き、政府軍が村山に砲台を置き砲撃戦が展開されました。城下町の範囲は全焼する被害となり、西郷軍は撤退して人吉隊は政府軍に降伏しました。