歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

菊池川流域の古墳文化

熊本県山鹿市のチブサン古墳の装飾

大和王権の文化が全国に広まり、各地に首長墓として古墳がつくられました。菊池川流域にも古墳が造営され、貴重な装飾古墳が集中するようになりました。装飾古墳は全国で660基あまりがあり、このうち熊本県には全国の3割にあたる196基が確認され、菊池川流域には117基が分布しています。

稲作農耕と豪族の誕生

弥生時代に稲作が伝わると、50人ほどの集団がまとまり生活する集落が形成しました。集落は首長を中心に稲作を行うようになり、身分差が生まれるようになりました。各地の集落は争いと合併を繰り返すようになり、やがて大規模な集落を形成していき、各地で力を持つ豪族が誕生しました。

空白の四世紀

3世紀から8世紀初頭にかけて、全国的に土を盛り上げた墓が盛んにつくられました。この時代は古墳時代と呼ばれ、この頃に大和王権が成立したとされています。文字が無い古墳時代前期は情報が少なく、空白の四世紀と呼ばれています。この時代は古墳の埋葬品や外国の文書に残される情報が重要な手掛かりとなります。

全国に広がる前方後円墳

現在の奈良県を中心とした大和王権では、古墳を造営する文化がありました。大和王権は各地の豪族を従えていき、前方後円墳と呼ばれる円形と台形状の盛土が合体した形をする古墳が全国的に共有されました。大和王権は権力の象徴として三角縁神獣鏡を各地の豪族に配り、各地の古墳から三角縁神獣鏡が出土しています。

熊本県山鹿市の岩原古墳群

岩原古墳群

岩原古墳群は古墳時代中期の5世紀に造営されました。熊本県最大級の前方後円墳である双子塚古墳を中心とする古墳群です。

熊本県山鹿市の双子塚古墳

双子塚古墳

岩原古墳群の中心となる前方後円墳です。前方後円墳の周囲には堀が巡らされていることがあり、この堀を周濠と呼びます。

菊池川流域の古墳文化

肥沃な菊池川流域では大規模な集落が営まれ、米作りが盛んに行われました。筑後川流域とも交流があり、筑後川流域で発達していた石像文化が伝えられていました。継体天皇21年(527年)に筑紫野君磐井が大和王権に反旗を翻して敗れると筑後川流域の石人や石馬像は破壊されました。磐井の乱により石像を置くのではなく、石室を装飾する文化へと変化したとも言われます。

熊本県玉名郡の江田船山古墳

江田船山古墳

5世紀後半頃に造られたとされる墳丘長62メートルの前方後円墳で、日本最古級の漢字が刻まれた銀象嵌の太刀が出土したことで知られます。

熊本県玉名郡の津袋古墳群(大塚古墳)

津袋古墳群(大塚古墳)

古墳時代前期から中期に造営された古墳群で、大塚古墳、頂塚古墳、朱塚古墳、平原塚古墳、茶臼塚古墳、小町塚古墳、五社宮塚古墳で構成されます。このうち朱塚古墳には朱色が残されています。

菊池川流域の装飾古墳

装飾古墳は、古墳内部の石室や石棺に彩色や彫刻で装飾されたものです。菊池川流域には全国の4割にあたる117基の装飾古墳があり、特徴的な幾何学模様が描かれています。菊池川流域では装飾に使われるベンガラの材料である阿蘇黄土が手に入りやすく、阿蘇凝灰岩と呼ばれる柔らかくて装飾に適した石がたくさん採れるため装飾古墳が集中したと考えられています。

熊本県山鹿市のチブサン古墳

チブサン古墳

チブサン古墳は6世紀頃につくられた前方後円墳です。石棺の壁には赤、白、黒の三色で丸や三角、菱形などの装飾が見られます。

熊本県山鹿市のチブサン古墳

チブサン古墳

チブサン古墳の装飾は特徴的で、女性の乳房に見えることから名付けられましたが、埋葬された人物や鏡が描かれていると考えられています。

菊池川流域の円墳

6世紀半ばになると、大和王権は古墳の造営を規制したため前方後円墳の規模が縮小し、中小の円墳が造営さえる群集墓へと移行していきました。菊池川流域も巨大な前方後円墳から簡略な円墳が採用されるようになりました。菊池川流域の古墳の石室は正方形ドーム式のものが多く、肥後型と呼ばれています。

熊本県山鹿市のオブサン古墳

オブサン古墳

オブサン古墳は6世紀後半につくられた円墳で、非常に珍しい突堤があります。内部には巨石を組み合わせた複数の横穴式石室が造られています。

熊本県山鹿市の御霊塚古墳

御霊塚古墳

6世紀後半頃につくられた円墳で、つくられた当初は周濠が巡る直径20メートルの半球型をしていました。内部には赤色や白色で円の模様や靭が描かれています。

熊本県山鹿市の弁慶ヶ穴古墳

弁慶ヶ穴古墳

6世紀末ごろに巨大な石を使用して構築された円墳です。石室の壁面には船と馬の壁画が描かれ、鉄製の武具や馬具が見つかりました。

熊本県山鹿市の馬塚古墳

馬塚古墳

6世紀頃に造営された円墳です。内部は横穴式石室で、立派な馬具類が祀られていたことから馬塚と呼ばれて馬の神様として信仰されてきました。

熊本県山鹿市の持松塚原古墳

持松塚原古墳

持松台地に唯一残されている円墳で、幅2メートル近い石棺の一部が発見され、蓋に装飾状の彫刻が見られたため、急遽県の史跡に指定されました。

横穴墓群

古墳時代の終わりにあたる6世紀から7世紀には、岩などの崖面に穴を掘り遺体を安置する横穴墓が多くつくられるようになりました。菊池川流域には3000基を越える横穴墓群が確認されています。

熊本県山鹿市の鍋田横穴

鍋田横穴

6世紀に菊池川の支流の岩野川に沿う断崖につくられた群集墓です。61基の横穴墓のうち16基に装飾がみられます。

熊本県山鹿市の桜の上横穴群

桜の上横穴群

岩原古墳群がある台地の北西に位置し、23基の横穴墓が確認されています。1号墓は内部構造の保存状態が良好で保護施設が設けられています。

熊本県山鹿市の付城横穴群

付城横穴群

6世紀頃に造営された横穴墓で、上下5~6段にわたり96基の墓があります。中央付近の三基には鋸歯文の線刻や赤色の同心円等の装飾があります。

熊本県山鹿市の岩原横穴群

岩原横穴群

阿蘇熔結凝灰岩の岩原台地の崖面につくられた131基が分布した横穴墓です。このうち8基に装飾文様があり、14号墳には舟縁の形をした屍床があります。

熊本県山鹿市の長岩横穴群

長岩横穴群

6世紀に志々岐台地の南端から西端の崖につくられた群集墓です。大小あわせて120基あり、うち12基に装飾が施されています。

熊本県山鹿市の城横穴群

城横穴群

6世紀に台地の崖面につくられた群集墓です。46基の横穴墓が確認されており、20号と21号の間にある人物や盾などの装飾が特に有名です。