山鹿市

山鹿市は熊本県北部に位置します。北部は標高千メートルを超える山地があり、岩野川や上内田川の清流が菊池川に流れ込みます。豊かな田園地帯を形成し、豊富な湯量と良質な泉質で知られる山鹿温泉郷が生まれました。大宮神社に山鹿燈籠を奉納する山鹿燈籠まつりが開かれることでも知られます。
概要
- 面積
- 299.69km2
- 人口
- 48,027人(2022年2月1日)
- 市の木
- キンモクセイ
- 市の花
- ツツジ
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
特集
歴史
古くから小倉や大宰府から南九州に至る交通の要衝でした。江戸時代に参勤交代で使用されるようになると、豊前街道最大の宿場町として繁栄しました。菊池川の水運を利用して物産の集積地となり、造り酒屋や麹蔵の商家が建てられましたが、交通の要衝であるが故に明治時代の西南戦争で戦禍に遭いました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺跡は非常に少ないですが、長沖遺跡や蒲生下原遺跡で黒曜石のマイクロコアが出土しています。縄文時代の遺跡は東鍋田遺跡や城下原遺跡など鍋田台地や平小城台地、志々岐台地に集中しています。弥生時代には方保田東原遺跡や蒲生上の原遺跡などで集落跡が確認されるようになりました。

方保田東原遺跡
弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地に形成した熊本県最大級の集落跡です。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代後期の古墳や横穴墓が多く造営されています。特に装飾がある古墳や横穴墓は全国規模で多くあります。

チブサン古墳
チブサン古墳は6世紀頃につくられた前方後円墳です。石棺の壁には赤、白、黒の三色で丸や三角、菱形などの装飾が見られます。

オブサン古墳
オブサン古墳は6世紀後半につくられた円墳で、非常に珍しい突堤があります。内部には巨石を組み合わせた複数の横穴式石室が造られています。

鍋田横穴
6世紀に菊池川の支流の岩野川に沿う断崖につくられた群集墓です。61基の横穴墓のうち16基に装飾がみられます。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して肥後国山鹿郡が置かれ、市域には条里制水田の遺構が残されています。康平元年(1058年)に康平寺が創建しました。保元の乱に敗れて都から落ち延びた宇野親治は、保元2年(1157年)に山中で鹿が湯飲みしているのを見て山鹿温泉を発見して山鹿の由来となりました。治承3年(1179年)に豪族山鹿六郎重光が町を切り開きました。
鎌倉時代、南北朝時代
豪族の山鹿氏は鎌倉幕府の御家人として支配しました。霜野の仏像群や法華寺の石塔群などが造営され、仏教文化が根付いていきました。鎌倉幕府が滅亡すると山鹿氏は北朝方となりますが、内部闘争などで衰退していきました。
室町時代、安土桃山時代
菊池氏の有力家臣である隈部氏が治め、室町時代から大宮神社に山鹿燈籠を奉納する神事が行われるようになりました。天正15年(1587年)に佐々成正の検地に反発して、隈部親永ら国衆が肥後国衆一揆を起こし、城村城を拠点として西付城や東付城が築かれました。

隈部氏館跡
16世紀後半の国衆・隈部氏の館跡で隈府城に移るまで本拠としました。中心部には3棟の建物跡と庭園があり、周囲を堀で囲い入口を石垣で守りを固めています。
江戸時代
熊本藩主細川家により山鹿が整備され参勤交代で利用されるようになり、豊前街道で一番の賑わいをみせる宿場町となりました。菊池川の水上交通の要として米などの物産が集積し、造り酒屋や麹蔵が営まれました。安政4年(1857年)に惣庄屋兼代官の遠山弥二兵衛が水不足に悩む蒲生地区に湯の口溜池を完成しました。

豊前街道山鹿惣門跡
菊池川と豊前街道が交差して米などの物産が集められる重要な地となりました。米を材料とした造り酒屋や麹蔵など古い町並みが残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治10年(1877年)の西南戦争で、桐野利秋率いる薩軍3000名が陣を置き、鍋田で激しい戦いが起こりました。明治29年(1896年)に山鹿鉄道が発足しましたが、資金難により鉄道敷設は実現しませんでした。山鹿市は、昭和29年(1954年)に成立し、平成17年(2005年)に合併して現在の市域となりました。

岩間間道
山鹿と南関を結ぶ重要な経路で、南関の政府軍を襲うため薩軍が総攻撃を仕掛け、政府軍と薩軍が激しい攻防戦を展開しました。

薩軍村田三介戦死之地
明治6年の政変で下野した村田三介は、西南戦争で五番大隊二番小隊長を務めました。植木の戦闘で乃木少佐から軍旗を纂奪しますが、山鹿口の戦いで狙撃されて戦死しました。

八千代座
明治43年(1910年)に町人たちが資金を出し合い建設された芝居小屋です。テレビの普及で閉館しますが、瓦一枚運動を契機として復原されました。