阿蘇市

阿蘇市は熊本県の北東部に位置し、阿蘇五岳を中心とする世界最大級のカルデラや広大な草原を有し、比較的平坦地の多い阿蘇谷とそれを取り巻く阿蘇外輪地域で形成されています。阿蘇国造の祖先である阿蘇都彦と阿蘇都媛がいたことが地名の由来となりました。
概要
- 面積
- 376.30km2
- 人口
- 24,629人(2021年11月1日)
- 市の木
- ミヤマキリシマ(ツツジ)
- 市の花
- リンドウ
- 市の鳥
- キジ
- 地図
特集
歴史
阿蘇カルデラの内部は、弥生時代から人びとが定住するようになりました。阿蘇山は信仰の対象であり、阿蘇君が阿蘇神社の神主家を務めるようになり阿蘇を名乗りました。阿蘇氏はやがて武士団を形成して勢力を拡張していきましたが、島津氏に降伏してから加藤家や細川家が領主となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
約9万年前に巨大な噴火を興した阿蘇山は、世界有数のカルデラを形成して現在まで火山活動が継続しています。旧石器時代や縄文時代の人の営みはカルデラ内部では確認されておらず、阿蘇外輪山の30カ所ほど確認されているにすぎません。カルデラ内部に人が居住するようになるのは弥生時代中期からで、阿蘇カルデラの湿地の微高地で生活を始めました。阿蘇町前田遺跡から黒髪式土器を伴う円形住居跡、西原村谷頭遺跡から方形と円形の住居跡、谷頭遺跡から磨製石鏃を製作した工房跡が発見されています。

米塚
直径400メートル、高さ80メートルの円錐状の美しい形をしており、頂上には直径100メートル、深さ20メートルの火口跡があります。

草千里ヶ浜
国の名称及び天然記念物に指定されている直径約1キロメートルに及ぶ草原で、3万年前の噴火活動により形成された火口跡とされています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代になると、阿蘇地域は阿蘇君の一族が統治するようになりました。阿蘇君は律令時代に阿蘇神社の神主家となる豪族で、阿蘇火山を火神として崇拝していたと司祭者と考えられています。4世紀から5世紀初めごろに黒川沿岸の一の宮町中通に造営された中通塚古墳群は、阿蘇君一族の古墳であると推定されています。中通塚古墳群は車塚、勝負塚古墳、鞍掛塚古墳など8基の円墳と長目塚古墳を含む2基の前方後円墳からなります。

勝負塚古墳
中通古墳群に含まれる直径58メートル、高さ11メートルの円墳で、墳丘には墓地が造営されています。

長目塚古墳
中通古墳群に含まれる墳長112メートルある熊本県内最大級の前方後円墳です。成人女性とみられる人骨のほか内行花文鏡や玉類などが出土しています。

上御倉古墳
黒川北部に6世紀頃に造営された阿蘇国造である速瓶玉命の墳墓で、複室の横穴式石室を備えている円墳です。

下御倉古墳
上御倉古墳の麓に造営された6世紀頃の円墳で、速瓶玉命の妃である雨宮媛命の墳墓と言われています。
奈良時代、平安時代
神健磐龍命や国造速瓶玉命の直裔とされる宇治友成は、阿蘇神社の大宮司を務めるようになりました。律令制の地方統制機能が緩むと阿蘇郡は阿蘇社領となり、宇治家は武士団を形成して阿蘇郡の郡司から阿蘇荘の荘官となりました。宇治惟泰の代になると、阿蘇姓を名乗り熊本平野まで勢力を伸ばし、阿蘇惟泰は治承4年(1180年)に平清盛が起こした治承・寿永の乱にも参加しています。
鎌倉時代、南北朝時代
阿蘇惟泰の子阿蘇惟次は、承元元年(1207年)頃に浜の館を建造して本拠地としました。阿蘇惟直が戦死して惣領家断絶の危機に陥ると、北朝方の足利尊氏が阿蘇家分家の坂梨孫熊丸を当主に推して、南朝方の阿蘇氏は阿蘇家分家の恵良惟澄を擁立しようとして内乱となりました。興国2年/暦応4年(1341年)に恵良惟澄が孫熊丸を討ち取り内乱は収まりますが、家中の混乱は収まることはなく南朝と北朝が大宮司を交互に擁立する事態となりました。
室町時代、安土桃山時代
文明16年(1484年)の馬門原の戦いで勝利した阿蘇惟憲は阿蘇一族を纏めることに成功しました。阿蘇惟憲の子阿蘇惟長は菊池氏の養子となり肥後国守護を継承しましたが、菊池家中と対立して阿蘇に戻りました。阿蘇惟長は大宮司職を求め、弟で大宮司を務める阿蘇惟豊と争うようになりました。
島津氏の侵略
阿蘇惟豊は甲斐親宣の力を借りて内乱を終わらせて阿蘇家中を統一しますが、台頭してきた島津氏の圧力を受けるようになりました。天正10年(1541年)に阿蘇家重臣の御船房行が島津氏に寝返り、甲斐親宣の子甲斐宗運がこれを鎮圧しましたが、やがて当主阿蘇惟将や甲斐宗運が亡くなると島津氏に対抗できなくなりました。やがて島津氏の侵略で阿蘇氏は追放されました。

阿蘇神社
神武天皇の孫である健磐龍命らを祀る2000年以上の歴史がある神社です。火山信仰と融合した肥後国一之宮で阿蘇家が大宮司を務めてきました。
江戸時代
九州討伐で島津氏が降伏してから加藤清正が肥後国に入り、関ケ原の戦いを経て加藤清正が初代熊本藩主となりました。加藤清正は島津氏に追われていた阿蘇氏に領地を与えて神職の地位を与えました。

豊後街道
加藤清正は肥後国熊本から豊後国鶴崎まで豊後街道を整備して参勤交代で使用しました。阿蘇には的場宿、内牧宿、坂梨宿が設けられました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により熊本県が置かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では有志隊を結成して警視隊に協力し、大津から二重峠に進出した薩軍と二重峠・黒川口と滝室坂で戦いとなりました。明治30年(1897年)に内牧竹林地区で温泉が発見され、夏目漱石などが訪れる温泉地となりました。