六郷満山の仏教文化

神秘的な自然美に包まれる国東半島は、古くから神々が住む霊地として敬われていました。奈良時代から平安時代前期には山岳修行者たちによる深山幽谷を巡る修行が確立したと伝えられます。修行者たちの難行は後継者へと伝えられ、多くの山岳寺院が営まれるようになりました。
六郷満山の成立
奈良時代の養老2年(718年)に宇佐八幡大神の化身である仁聞菩薩は、28の寺院を開創して6万9千体の仏像を造り、古来から伝わる山岳信仰と宇佐神宮の八幡信仰や天台密教が融合した独特の山岳仏教を開きました。国東郡は来縄、田染、伊美、国東、武蔵、安岐の6郷により構成されたことから、仁聞菩薩が開いた神仏習合の山岳仏教は六郷満山と呼ばれました。

中山仙境(夷谷)
尾根筋がノコギリの刃のように細かく上下している地形で、夷谷に住んだ僧侶は夷石屋を形成し、仏事に勤しむ傍らで谷の開拓を試みました。

天念寺耶馬及び無動寺耶馬
岩林・岩壁状の独特な地形で、修正鬼会で有名な天念寺や平安仏が祀られる無動寺が置かれ、平安時代から六郷満山などの僧侶が修行しました。
仁聞菩薩伝承の峯入り
斉衡2年(855年)に津波戸山の岩屋で修行していた能行聖人は、仁聞菩薩から国東半島巡礼の峯道を授けました。1つは後山の岩屋から横城の山を横断する道、2つ目は国東半島の海岸部の山を巡る峯入りの巡行路を示しました。これにより弥勒寺の僧侶たちの修行の場として多くの寺院が建立されていきました。

カワラガマ遺跡
平安時代初期の古代寺院の瓦を生産した平窯で、国東半島特有の仏教文化・六郷満山の始まりと関係していると考えられています。

富貴寺境内
平安時代中期の宇佐神宮神官の菩提寺でした。現存する九州最古の木造建築物で、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂とともに日本三阿弥陀堂とされます。
修正鬼会
仁聞菩薩が創始したと伝わる修正鬼会は、無病息災、五穀豊穣を祈願して始められました。鬼を払うのではなく、仏の化身である鬼を迎え入れる独特の形式で、鈴鬼が赤鬼と黒鬼を招き入れます。

長岩屋山天念寺
天念寺のある長岩屋集落では、六郷満山開基の祖霊をはじめとする先祖の霊を祀る修正鬼会が開かれています。
天台密教の流入
永保元年(1081年)に弥勒寺の新宝塔院が建立されると、天台座主から弥勒寺僧に授けられた法華供養法により供養されたことで天台密教が本格的に九州に伝わりました。永保3年(1083年)には津波戸山に経塚が築かれ、東半島各所の霊場に経塚が置かれるようになりました。

六郷山夷岩屋の寺社境内
夷谷一帯が夷岩屋と呼ばれる1つの寺院境内でした。平安時代後期に夷岩屋の僧が仏事のかたわら耕した土地を六郷山の高僧達の議決で寺領化しました。

熊野磨崖仏
鬼が一晩で積んだという日本最大級の磨崖仏で平安時代末期の作といわれています。

鍋山磨崖仏
鍋山の中腹岩壁に平安時代後期の作と言われている不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子の不動三尊が半肉彫りにされています。
幕府の勅願所
古代から中世の六郷山寺院は、学問の本山、修行の中山、不況の末山に分けられています。鎌倉時代に元軍が攻めてくると、天念寺や長安寺など六郷山寺院の多くが元軍を退ける祈祷を行いました。

金剛山長安寺
元寇の際の異国降伏祈祷などで崇敬を集めるようになり、鎌倉時代には幕府の祈願寺として隆盛して六郷満山の中心的役割を果たしました。
石像文化
国東半島は大小の自然石が多く、豊後高田市の無動寺耶馬や天念寺耶馬のほか東市の文殊耶馬などの風光明媚な景観を生み出しています。この自然石を使用して鎌倉~南北朝時代にかけて、岩肌に仏を刻んだ磨崖仏や宝塔の一種である国東塔など多くの石造文化財が生まれました。

福真磨崖仏
四王石屋の参道につくられた南北朝時代の磨崖仏です。

線彫板碑
堂園板碑と梅の木板碑の2カ所に残されている板状の石に梵字が刻まれたもので、南北朝時代に刻まれました。
六郷山の衰退と再興
六郷山寺院の多くが吉弘氏の保護を受けました。文禄2年(1593年)に大友義統は文禄の役時の敵前逃亡により流罪となり吉弘氏も国東半島を離れた。江戸時代中期に両子寺が杵築藩・松平氏の保護を受けるようになり復興していきました。

堂ノ迫磨崖仏
応暦寺奥の院に通じる参道にある室町時代の六観音、六地蔵、比丘尼像が残ります。

元宮磨崖仏
富貴寺と真木大堂の道沿いにある毘沙門天(多聞天)、矜羯羅童子、不動明王、持国天、地蔵菩薩の磨崖仏で、室町時代後期の作と伝えられています。