豊後高田市

豊後高田市は大分県の北東部で国東半島の西側に位置します。北は周防灘に面しており、豊かな自然と温暖で過ごしやすい瀬戸内海気候に属しています。
概要
- 面積
- 206.24km2
- 人口
- 21,900人(2022年2月1日)
- 市の木
- 柿
- 市の花
- コスモス
- 地図
特集
歴史
奈良時代から平安時代前期に山岳修行者の修行が確立して六郷満山の仏教文化が隆盛した仏の郷です。江戸時代は島原藩の深溝松平氏の領地となり新田開発などが行われました。昭和時代に人口減少が顕著となりましたが、昭和の町を整備して観光資源とするようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
黒曜石の産地である姫島が近いことから、先史時代の黒曜石を利用した石鏃などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
66カ所の古墳が確認されおり、当時の海岸線沿いの目立つ場所に古墳が築かれています。古墳時代後期には横穴墓が造営されるようになりました。

入津原丸山古墳
広瀬川南岸の段丘の突端部にある4世紀末~5世紀初頭の帆立貝形古墳で、鏡・革綴・短甲・玉類・滑石製品などの副葬品が発見されています。

猫石丸山古墳
周防灘に面した赤坂川左岸の丘陵先端部にある6世紀前半の前方後円墳で、築造当時は円筒埴輪が並べられていました。

穴瀬横穴群
6世紀後半から7世紀中頃に造営された横穴墓で、19基のうち12基に円文や同心円文の幾何学文様が赤色で描かれています。
奈良時代、平安時代
平安時代に宇佐神宮の荘園である田染荘のほか小野荘、来縄郷、真玉荘、香々地荘、臼野荘、草地荘、都甲荘が開かれました。独特の山岳仏教文化・六郷満山が開花し、斉衡2年(855年)の記録が残る峯入りは日本最古級の峯入り修行であると言えます。平安時代末期になると宇佐神宮神官出身の大神姓の緒方惟栄が支配しました。
鎌倉時代、南北朝時代
緒方氏と同じく大神姓の都甲氏や真玉氏が治めるようになりました。鎌倉時代末期に元寇が起こると、都甲惟親・惟遠や真玉氏らは元寇で活躍しました。荘園を武士が武力で支配するようになると、田染荘の荘官である妙覚は武士団に奪われた土地を取り返しました。

田染荘小崎の農村景観
田染荘は平安時代中後期に宇佐神宮の荘園として開発を受け、小崎村の棚田もその頃に拡大したとされています。

真玉氏居館跡
鎌倉時代から室町時代初期にかけて真玉荘の地頭である大神系真玉氏の居館があり、南北朝時代に木付系真玉氏が支配拠点として構築しました。
室町時代、安土桃山時代
鎌倉幕府が倒れると、豊後大友氏と周防大内氏が争うようになりました。大友氏により配置された吉弘氏や田原氏などは大友氏の重臣として活躍しましたが、天正8年(1580年)に田原親貫が大友宗麟に反乱を起こし、佐野鞍懸城が戦場となりました。
江戸時代
竹中氏による高田藩が成立しましたが、寛文9年(1669年)に島原藩の深溝松平氏の領地となりました。 塩谷大四郎が文政12年(1829年)に呉崎海岸の新田開発を完成させました。弘化元年(1844年)に鴛海量容が私塾である涵養舎を設立しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和29年(1954年)に豊後高田市が誕生しましたが、人口が減少して昭和40年(1965年)に宇佐 参宮鉄道が廃線となりました。平成12年(2000年)に昭和30年代以前をテーマとした昭和の町づくりをはじめました。