神仏習合と宇佐八幡文化

宇佐神宮は、全国に4万余社ある八幡社の総本宮で、誉田別命と同一視されている応神天皇を八幡大神として祀るほか、比売大神、応神天皇の母・神功皇后が祀られています。鶴岡八幡宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡と呼ばれています。宇佐神宮は仏教と神仏習合して、独自の宇佐八幡文化が花開きました。
宇佐神宮の創建
現在の宇佐神宮本殿がある小椋山の麓にいた鍛冶翁は、大神比義の祈りで3歳の童の姿に変身して「辛国の城に始て八流の幡と天降って吾は日本の神と成れり」と託宣を出したと言われます。和銅元年(708年)に鷹の姿で現れた八幡神は、鷹居神社や小山田社に祀られたあと、神亀2年(725年)に現在の小椋山の社殿(一之御殿)に鎮座されました。

御霊水
八幡大神が3歳の童の姿で初めて顕現された場所で、自身が応神天皇であることと日本を守護することを告げたとされます。
仏教伝来と神仏習合
6世紀に仏教が伝来すると、8世紀前半から虚空蔵寺、小倉池廃寺、法鏡寺廃寺などの古代寺院が創建しました。天平10年(738年)に弥勒禅寺が宇佐神宮の境内に移されて弥勒寺となり、その初代別当を務めた法蓮とその弟子たちは、宇佐のみならず豊前国の領域や国東半島に仏教を広め、六郷山には八幡神の化身である仁聞菩薩が開基したという伝承が残る寺院が多数あります。
隼人の乱と放生会
養老4年(720年)に九州南部の隼人が朝廷に対して反乱を起こすと、大和朝廷は宇佐宮で必勝祈願して八幡大神を輿に乗せて鎮圧に向かいました。隼人の乱は3年で鎮圧されましたが、殺生の罪を悔いた八幡大神は仏教に救いを求め、朝廷に服従させられた隼人の霊を慰めるため、天平16年(744年)に仏教の殺生戒に基づき供養する放生会が始まりました。

法鏡寺廃寺跡
飛鳥時代の古大寺院で、宇佐神宮と弥勒寺の近くに創建されました。

虚空蔵寺塔跡
奈良時代前期の7世紀末ころに創建された古代寺院跡で、法隆寺式伽羅配置をした九州最古の寺院です。

虚空蔵寺1号瓦窯跡
飛鳥時代に操業した瓦をつくる窯で、出土した瓦の文様から隣接する虚空蔵寺跡で使用した瓦を製造していました。

切寄瓦窯跡
畿内の技術が宇佐に伝わり、7世紀末~8世紀初頭にかけて法隆寺系古瓦が焼かれた窯跡です。
重要視される宇佐神宮
天平7年(735年)に天然痘が流行して日本の総人口の3割が亡くなる災害が起こりました。聖武天皇は仏教に救いを求めて東大寺大仏の建立を発願しますが、大仏建立に必要な金が不足したため事業の継続について宇佐神宮に神託を仰ぎました。神託では国内で金が出るとのことで事業は継続され、その神託どおり陸奥国で金が出土して大仏殿を完成させました。八幡大神が輿に乗り東大寺大仏を拝したことが神輿の始まりと言われます。
宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)
孝謙上皇の信頼を得た僧侶の道鏡は、政治的に高い地位を得るようになりました。淳仁天皇が崩御すると、孝謙上皇は称徳天皇として天皇の位に戻りますが、称徳天皇に嫡子がいないことから、道鏡は自身を天皇に据えるよう孝謙上皇に偽の御神託を上奏しました。これに異を唱えた公家たちは和気清麻呂を宇佐神宮に派遣して宇佐神宮で神託を仰ぎました。宇佐神宮の神託を受けた和気清麻呂は道鏡の偽託を奏上して、天皇家の血筋は守られました。

宇佐神宮
宇佐神宮は国家の重大事件に際して託宣を出す大きな存在となり、九州最大の荘園を有するまで繁栄しました。
神仏習合の宇佐八幡文化
宇佐神宮は国家を守護する性格に加えて、仏と一体化した神として神仏習合を先導する神となりました。宇佐宮の神宮寺である弥勒寺は神仏習合と八幡信仰の広がりとともに勢力を拡大していき、神仏が集合した宇佐八幡文化が花開きました。

妙楽寺経塚
求菩提山中興の祖である頼厳上人ゆかりの妙楽寺に築かれた経塚で、かつては6基の経塚がありました。
磨崖仏
国東半島で六郷満山が開かれて山岳修行者たちによる深山幽谷を巡る修行が確立すると、修験者が仙人のような生活を営みながら磨崖仏を刻みました。宇佐市に残される磨崖仏は、火山から流れ出た溶岩がゆっくりと固まり柱状になった柱状節理の岩壁に彫られているのが特徴です。

下市磨崖仏
室町時代前期の不動明王像の磨崖仏で、乳飲み子を抱える母親がお粥を供えると乳が出るようになったという謂れがあります。

楢本磨崖仏
室町時代の応永35年(1428年)に造営された不動三尊、薬師三尊らの磨崖仏です。
宇佐八幡文化の衰退
平安時代後半に武家が勢力を強めると、九州最大の荘園領主である宇佐宮大宮司の宇佐公通は平清盛との関係を強めて最盛期を迎えました。鎌倉時代末期の元寇では敵国降伏を祈願し、元軍を滅亡させた神風は八幡大神が起こしたものと信じられましたが、元寇を遠因として鎌倉幕府は崩壊し、困窮した武士は宇佐宮領の荘園を奪うようになり、少しずつ衰退していきました。
廃仏毀釈と仏教景観の一掃
江戸時代末期に王政復古の宣言により明治政府が誕生すると、明治元年(1868年)の神仏判然令により廃仏毀釈の運動が全国に広まりました。宇佐神宮でも弥勒寺をはじめ境内の仏教景観は一掃されてしまいましたが、明治4年(1871年)の近代社格制度により、宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ高い社格の官幣大社に位置付けられました。