歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

宇佐市

大分県宇佐市の宇佐神宮

宇佐市は大分県北部に位置し、北は周防灘が開けて南は立石山や人見岳などが連なります。南部の九州山地は耶馬と呼ばれる奇岩や奇峰のほか滝が多くあり独特の景観を生み出し、駅館川流域はオオサンショウウオの生息地として保護されています。豊かな自然により西日本有数のぶどうの産地となり、麦焼酎の出荷量は日本一です。

概要

面積
439.05km2
人口
51,699人(2022年2月1日)
市の木
イチイガシ
市の花
ツツジ
地図

特集

大分県宇佐市の宇佐神宮

神仏習合と宇佐八幡文化

宇佐神宮は全国に4万余社ある八幡社の総本宮で、鶴岡八幡宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡とされます。

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歴史

南側に九州山地が連なり、北側全体が豊前海に面する宇佐は、古くから海陸交通の要衝として機能し、各地と交流がありました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

神武天皇の東遷時に訪れた際にウサツヒコとウサツヒメという豪族がもてなしました。

大分県宇佐市の野口遺跡

野口遺跡

弥生時代中期から末期の大分県内で最も大きい集団墓で、列状に並ぶ270基の墓とそれを囲むように配置された40基の祭祀土坑から構成されます。

大分県宇佐市の上原遺跡

上原遺跡

弥生時代後期の方形住居跡10軒が確認されたほか、中国製の鏡の破片が発見されたことから首長クラスの建物と考えられています。

大分県宇佐市の樋尻道遺跡

樋尻道遺跡

弥生時代の東上田遺跡の周辺部にある集団の墓で、発見された80基の墓から大小の土製勾玉12個が入れられた墓も見つかりました。

大分県宇佐市の京徳遺跡

京徳遺跡

古墳が出現する弥生時代終末期の共同墓地で、石蓋土壙墓と土壙墓が約50基出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

前方後円墳が造営されなくなると、崖面を掘り込んだ集団墓である横穴墓群が造られるようになりました。

大分県宇佐市の古稲荷古墳

古稲荷古墳

駅館川右岸段丘上にある3世紀初頭の方墳で、中国・魏で作られたとみられる斜縁六獣鏡が出土しました。

大分県宇佐市の小部遺跡

小部遺跡

3世紀後半~4世紀の集落遺跡で、大型掘立柱建物のほか豪族居館と考えられている環濠と柵に囲まれた方形区画が発見されています。

大分県宇佐市の川部・高森古墳群

川部・高森古墳群

駅館川東側の台地にある前方後円墳6基を中心とした古墳群で、九州で最も古い時期に築かれた前方後円墳と考えられています。

大分県宇佐市の高倉古墳

高倉古墳

5世紀に築造された大分県最大の柄鏡式前方後円墳で、前漢式の白銅鏡2面と鉄剣などが出土しました。

大分県宇佐市の葛原古墳

葛原古墳

5世紀後半の円形盛土をした高塚式古墳で、直径53メートル、高さ6メートルは宇佐最大の円墳です。

大分県宇佐市の凶首塚古墳

凶首塚古墳

6世紀後半から7世紀初頭に造られた古代の巨石墳で、宇佐地域の豪族の長の墓と考えられています。

大分県宇佐市の久々姥古墳

久々姥古墳

2基の円墳と周囲から方形周溝墓などが見つかりました。1号墳は直径25メートルの円墳で、2号墳は私有地にあります。

大分県宇佐市の蛭子ヶ原古墳

蛭子ヶ原古墳

駅館川の西岸の段丘上にある6世紀後半の円墳で、主体部に横穴式石室があります。

大分県宇佐市の四日市横穴群

四日市横穴群

一鬼手横穴群と加賀山横穴群で構成される集団墓で、6世紀後半~7世紀にかけて造営されたものと推定されています。

大分県宇佐市の貴船平・下の裏山横穴群

貴船平・下の裏山横穴群

6世紀末~7世紀初頭にかけて横山谷の西側丘陵斜面に造営された100基以上ある横穴墓です。

奈良時代、平安時代

官道が整備されて交通の拠点として駅家が設置されました。天平18年(746年)に行基菩薩が龍岩寺を創建し、天徳2年(958年)に空也上人は、日本三大善光寺のひとつ豊前善光寺を建立しました。平安時代に宇佐宮の大宮司である宇佐公通は平清盛との関係を強めたほか、保元元年(1156年)に平田井路を開削しました。

大分県宇佐市の宇佐神宮

宇佐神宮

皇室が崇敬する全国に4万社あまりある八幡様の総本宮で、九州最大の荘園を領有していました。

鎌倉時代、南北朝時代

特に記録は見つけられませんでした。

室町時代、安土桃山時代

永禄5年(1562年)に大友宗麟が宇佐神宮を焼き討ちにしました。天正15年(1587年)に九州を平定した豊臣秀吉は、宇佐宮領や弥勒寺領などを全て没収しました。

大分県宇佐市の光岡城跡

光岡城跡

貞和6年(1350年)に赤尾種綱が築城したとされる城跡で、大内氏から大友氏の城となりましたが、大友氏が衰退すると城主赤尾統秀は攻め滅ぼされました。

江戸時代

江戸時代末期には天領、神領、島原藩領、中津藩領、旗本小笠原藩領に分割統治されました。干ばつに苦しむ農民を救うため、安政6年(1859年)から24年かけて東光寺五百羅漢が造営されました。国学者の敷田年治が幕末に創設した四日市郷校・伊勢山塾は、帆足万里の弟子である野本白岩や白石照山らが教鞭をとり、儒学や国学教育の拠点として機能しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4(1871年)の廃藩置県で小倉県となり、明治9年(1876年)の福岡県を経て大分県となりました。日本三大疎水の父とも呼ばれる南一郎平は、明治6年(1873年)に広瀬井路を完成させました。昭和14年(1939年)に宇佐海軍航空隊が開設され、太平洋戦争末期には米軍の空襲を受けるようになり、特別攻撃隊の基地として多くの若者が飛び立ちました。

大分県宇佐市の院内町石橋群

院内町石橋群

院内出身の石工・松田新之助が明治時代から昭和初期に架けた荒瀬橋・鳥居橋・富士見橋・御沓橋ら多くの石橋を架橋しました。

大分県宇佐市の城井一号掩体壕

城井一号掩体壕

軍用機を空襲から守るため、海軍宇佐航空隊が建造しました。