歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

九州の小京都・伊東氏飫肥藩

宮崎県日南市の飫肥城跡

南北朝時代に土持氏が築城した飫肥城は、明や琉球との貿易船が立ち寄る油津港を有する重要な拠点でした。やがて薩摩と大隅を支配していた島津氏と日向全域を勢力下に置いていた伊東氏が奪い合うようになり、戦国時代末期に伊東氏が治めて飫肥藩が成立しました。飫肥は城下町が整備されて油津港を拠点とする飫肥杉の交易で大いに発展して九州の小京都と称されるようになりました。

飫肥城の築城

平安時代に藤原家の荘園として開拓された飫肥院は、海上交通の拠点である油津港や外浦港と西方の都城に通じる交通の要衝でした。宇佐八幡宮の弁済使である土持氏は日向国に土着して勢力を広げ、南北朝時代に酒谷川に囲まれる北西部の標高51メートルの丘陵部に飫肥城を築城しました。やがて飫肥土持氏は島津氏や伊東氏の家臣として存続することになります。

島津氏と伊東氏の争奪戦

島津氏は長禄2年(1458年)に新納忠続を入城させ、串間領主の島津久逸とともに伊東氏の南下に備えました。文明16年(1484年)に都於郡城主伊東祐国が飫肥に侵攻しますが、伊東氏はこれに敗れて伊東祐国が戦死しました。これを契機として伊東氏は断続的に飫肥侵攻を繰り返すようになりました。

伊東氏の最盛期と衰退

伊東氏当主伊東義祐は、永禄5年(1562年)に島津氏から飫肥を奪取すると、永禄11年(1568年)に島津貴久と講和を結んで飫肥を所領として認めさせて最盛期を迎えました。飫肥は伊東祐兵が治めましたが、元亀3年(1572年)に九州の桶狭間と言われる木崎原の戦いで伊東氏は敗れて衰退し、島津氏は日向国で勢力を拡大して天正4年(1576年)に飫肥城も島津氏の支配下に置かれました。

宮崎県日南市の中ノ尾供養碑

中ノ尾供養碑

天文18年(1549年)に飫肥城主島津忠広らが伊東軍を奇襲して伊東治部少輔らを討ち取りました。激戦地には島津氏が伊東将兵を弔うために供養碑が建てられました。

伊東義祐

伊東義祐

日向国を治めて伊東氏の最盛期を築きましたが、島津氏に敗れて豊後国に落ち延びたのち各地を流浪しました。

飫肥藩の成立

飫肥を離れた伊東祐兵は豊臣秀吉に仕え、豊臣秀吉の九州征伐で先導役を務めました。この功績により天正15年(1587年)に豊臣秀吉から飫肥を与えられて領主として返り咲きました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して飫肥城を居城とした飫肥藩が成立しました。初代藩主となる伊東祐兵は飫肥城の麓に城下町を整備しました。

日南市の飫肥城

飫肥城大手門

樹齢100年を超える飫肥杉が使われた木造渡櫓二階建です。大手門を抜けると枡形虎口があり、鉄砲狭間が設けられた塀が取り付けられていて敵を迎え撃ちます。

日南市の首里城の龍潭

飫肥城

寛文2年(1662年)から大地震が相次いで大きな被害を受け、貞享3年(1686年)から元禄6年(1693年)にかけて曲輪の大規模な整備や石垣の構築が行われました。

宮崎県日南市の飫肥城跡本丸北門

飫肥城本丸北門

本丸跡に続く石段と石垣は安土桃山時代に造営されたもので飫肥城最古のものと考えられています。本丸には江戸時代に藩主が住む本丸御殿がありました。

宮崎県日南市の飫肥城下町

飫肥城下町

初代藩主伊東祐兵が城下町を整備しました。飫肥石や飫肥杉を使用した石垣や武家屋敷等が残り、九州の小京都と呼ばれた景観を生み出しています。

飫肥杉の植林

飫肥藩は作物が多く収穫できる土地では無いため、2代藩主伊東祐慶は財政立て直しのために飫肥杉の植林を始めました。山地を活かして植林された飫肥杉は南九州の温暖な気候でよく育ち、飫肥藩にとり貴重な財源となり、飫肥藩は九州の小京都と呼ばれるほど大いに繁栄しました。

日南市の飫肥杉

飫肥杉

油分が多く弾力性がある飫肥杉は造船用の木材として最適で重宝されました。国内のみならず国外にも輸出されています。

宮崎県日南市の堀川運河

堀川運河

貞享2年(1685年)に5代藩主伊東祐実が飫肥杉を油津港まで安全に運ぶため広瀬川と油津港まで整備した運河で、明治36年(1903年)に堀川橋が架橋されました。

幕末の飫肥

13代藩主伊東祐相は人材育成に力を注ぎ天保2年(1831年)に藩校として振徳堂を設立しました。振徳堂は儒学者の安井滄洲と息軒親子らが教授して、明治時代に外交官として活躍した小村寿太郎などの多くの人物を輩出しています。

宮崎県日南市の振徳堂

振徳堂

飫肥藩13代藩主・伊東祐相が人材育成のため建てた藩校で、西南戦争で飫肥隊を率いた小倉処平のほか小村寿太郎も学びました。

日南市の勝目氏庭園

勝目氏庭園

願成就寺の住職・祐編和尚が造営したと伝えられる中級武士勝目氏の庭園で、水を使わないで水の様子を表す枯山水式の庭園です。

飫肥藩の廃止

戊辰戦争で薩摩藩に従い新政府軍に与した伊東祐相は、明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となりました。明治4年(1871年)の廃藩置県で飫肥藩が廃止されると飫肥城はほとんどの建物が破却されて廃城となりました。

日南市の飫肥城

飫肥城

残された石垣や町並みは、昭和52年(1977年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、大手門や松尾の丸が復興されていきました。

宮崎県日南市の飫肥城跡

飫肥城歴史資料館

昭和53年(1978年)に設立した無料の資料館です。飫肥藩ゆかりの品が展示されています。